第82話 驚いたことと思い知らされたことと優しい声に胸が詰まること

文字数 937文字

 驚いた。まさか、いきなり蜂須が訪ねて来るとは思わなかった。
 だが、ずいぶんと失礼なことをして、迷惑をかけたのも確かだ。彼が怒るのはもっともだし、何を言われても文句は言えない。
 それに、望にも。頭ではわかっていたつもりだったが、泣きながら抗議されて、自分がどれほど彼を傷つけていたのかを思い知らされた。
 これ以上、彼に黙っていることは出来ない。そう思い、菜月との関係や、今までの経緯をすべて話したのだが、とても冷静ではいられず、ずいぶんと醜態をさらしてしまった。
 優しい望は、最後まで静かに耳を傾けていてくれたが。
 
 野山になんと詫びようかと思いながら、何げなく望を見ると、目が合った。その途端、彼が言う。
「そういえば、朔ちゃん、朝ご飯もお昼ご飯も食べてなかったよね。お腹空いたでしょう。
 あー、もうこんな時間だ。ちょっと早いけど、夕ご飯にしようか」
 そして、さっそく松葉杖につかまってソファから立ち上がる。
「俺も手伝うよ」
 朔も立ち上がりながらそう言うと、望はにっこり笑った。
 
 
 食事をした後、部屋に戻り、久しぶりにスマートフォンを手にする。緊張しながら電話をかけると、野山はすぐに出た。
「朔くん? 朔くんなんだね?」
「はい。ご無沙汰しています」
「あぁよかった。蜂須くんから連絡をもらったけど、本当に無事だったんだね」
 叱責されて当たり前だと思っていたのに、優しい声に胸が詰まる。
「ご迷惑をおかけして、すいませんでした」

「いや、いいんだよ。君が無事なら、それでいいんだ。蜂須くんから、君はずいぶん痩せていると聞いたけど、体は大丈夫なのかい?」
「はい。大丈夫です」
「それならよかった。あぁ、望くんも一緒なんだって?」
「はい」
「そういえば、望くんも足を怪我してるって聞いたけど……」
「はい。あいつ、階段から転げおちて」
「そうなの。それは心配だね。じゃあ、いろいろ不便だろう」
 野山は、あくまで優しい。
 
「でも、望が雇ったアルバイトの子が来てくれてるんで」
「へぇ、そうなの。じゃあ安心だね。……ところで」
 ふと野山の口調が変わった。
「はい」
「君の仕事のことなんだけど」
「あ……」
「本当にもう、絵を描く気はないの?」
「はい」
 描く気がないのではなく、自分には、もう描けないのだ。
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