第10話 喉元まで出かかった言葉とあれこれ思いを巡らせること

文字数 858文字

 マンションを引き払う前に、せめて一言くらい言ってくれてもいいのに。喉元まで出かかった言葉を、ぐっと押し戻して言う。
「これから、ここで仕事をするの?」
「いや……」
「じゃあ、バカンス?」
 そんなはずはないと思いながら聞いたのだが、朔は言った。
「まぁ、そんなもんだ」
「えっ、じゃあ仕事は?」
 オファーは引きも切らず、たしか、ずいぶん先まで仕事が決まっていると言っていたはずだが。
 
 朔が、うつむいたまま言った。
「仕事は、やめた」
「それは、しばらく休むってこと?」
「いや、やめた」
「だって……」
 そのとき朔が、苦し気に眉根を寄せた。
「気分が悪いんだ。少し休みたい」
「大丈夫?」
 望は思わず肩に触れたが、朔は、その手を振り払うようにしてゆらりと立ち上がる。そしてそのまま部屋を出ると、階段を上がって行ってしまった。
 取り残された望は、ため息をつき、空いた食器を片付ける。
 
 
 食器や鍋を洗ってしまうと手持無沙汰になったので、一階の部屋を見て回った。広いリビングルームとキッチンのほかに、ダイニングルームや、バストイレ付きのゲストルームらしき部屋もあるが、家具がそろっていない。
 その後、リビングルームのフランス窓から庭に出てみた。東側に、洋館と並ぶように離れがあり、かわいらしい外観に惹かれたが、今は鍵がかかっていて、中を見ることは出来ない。
 一通り庭を歩き回ると、再びフランス窓を通ってリビングルームに戻り、ほかに居場所もないので、さっきまで朔がいた革張りのソファセットの一角に腰を下ろす。家具を入れてきちんと整えれば、とても居心地がよくなりそうだが、今はまだ、それにはほど遠い。
 朔は一人でここに住むつもりなのか。だが、あんな調子で大丈夫なのだろうか……。
 
 
 あれこれ思いを巡らせているうちに、夕暮れどきになったが、朔は下りて来ない。夕飯の用意をして、それが終わっても下りて来なかったならば、そのときは呼びに行くことにしよう。
 ついでに、キッチンの荷物ぐらいは整理しておこうか。そう思いながら、望はキッチンに向かった。
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