第23話 こぼれそうになる涙と心に誓ったことと脳裏に浮かぶ映像

文字数 926文字

 朔は、膝の上に置いた鞄をぎゅっと握りしめる。こんなことを言われたのは初めてだ。
 しかも、菜月に。自分が思っているよりずっと、彼女は朔のことを見ていてくれたのだ。
 言いたい。すべてを話してしまいたい。でも……。逡巡した結果、朔は言った。
「何も、ありません」
 それなのに、語尾が震え、涙がこみ上げそうになる。駄目だ、絶対に……。
「そう、わかったわ。でも、もしも何かあったら、いつでも私に話してね。力になれることがあるかもしれないから」

 あぁ、駄目だ。涙がこぼれそうになり、朔は菜月から顔を背ける。
 何か一言でも言ったら、絶対に泣いてしまう。そう思って朔は、そのまま逃げるように教室を出た。
 
 
 そぼ降る雨の中、傘を差して歩きながら、朔は考える。父の暴力のことは、誰にも知られてはいけない。
 もしも誰かに話したことを父に知られたら、どんなひどい目に遭うかわからない。自分だけならばまだしも、そのことで母に被害が及ぶことだけは避けたい。
 なぜなのかは知らないが、これは自分たち母子に課された運命なのだ。決して逃れることなど出来ない。あのときがそうだったように……。
 身を守るためには、たとえ相手が菜月であっても、決して何も言ってはいけない。今後は悟られないように気をつけなければ。
 そう心に誓ったのだが、物事は、なかなか思うようには行かない。
 
 
 みなが思い思いにスケッチブックやイーゼルに立てかけたキャンバス向かう中、さっきから三年生の男子二人がふざけ合っている。
「あんたたち、絵を描く気がないなら、邪魔だから外に出てよ」
 三年生で唯一の女子が文句を言っている。その様子を、菜月は苦笑しながら見ている。
 人数が少ないだけに、美術部はアットホームな雰囲気で、度を越えない限り、菜月も、あまりうるさく注意しない。そういうところが朔も気に入っていたのだが。
 
「おい、何すんだよ!」
「お前こそ!」
「ちょっとあんたたち、いい加減してよ!」
 そのとき突然、ガタガタと大きな音がした。二人が羽目を外し過ぎて、何かが倒れたか落ちたかしたらしいが、それを確かめる余裕はなかった。
 不意に、脳裏に鮮明な映像が浮かぶ。父の血走った目。倒れる椅子。砕け散る食器。母の短い悲鳴――。
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