第31話 卒業と菜月の提案と急激に変わる未来

文字数 1,047文字

 受験勉強をしながら、相変わらず家では、ひそかに絵を描き続けていた。ときどき、机の引き出しから菜月にもらった絵葉書を出して見つめては、スケッチブックに向かう。
 絵葉書の絵も、それを菜月からもらったという事実も、朔に大いにインスピレーションを与えてくれた。ふと気づくと、眠らないまま明け方を迎えているということが何度もあった。
 
 
 朔は、卒業証書が入った筒を握りしめながら、美術部の部室へと向かう。引き戸を開けると、窓辺にたたずんでいたスーツ姿の菜月がこちらに向き直った。
 近づいて行く朔に、菜月が微笑む。
「影森くん、卒業おめでとう」
 それだけでもう、熱いものが胸にこみ上げる。先ほど卒業式が終わったばかりだ。
「先生……」
 伝えたい言葉ならばたくさんあるはずなのに、何一つ出て来ない。それより先に、涙があふれそうになる。
 
「影森くんががんばっていることはわかっていたけど、笹野原高校なら言うことないわね」
 朔が合格した笹野原高校は、近隣の高校の中では一二を争うレベルの高い高校だ。だが、そんなことはどうでもいい。
「先生……」
 涙がこぼれてしまったが、今だけは仕方がないと自分を許す。こうなることは、ここに来る前からわかっていた。
 今日で大好きな菜月ともお別れだ。もう、菜月と二人きりの時間を過ごした部室に来ることもないだろう。
 菜月と会えなくなるのだと思うと、胸が苦しくてたまらない。
 
「影森くん」
 菜月の目も潤んでいるように見える。
「よくがんばったわね。勉強も、部活動も、それに、おうちのことも」
 菜月は、朔が父に暴力を振るわれていることを知り、心配しながらも、朔の願いを受け入れ、今までずっと、誰にも言わずにいてくれたのだ。そこにはきっと、大きな葛藤があったに違いない。
「明日からはもう、先生と生徒じゃなくなるのね」
 菜月の言葉が悲しくて、涙が止まらない。だが、菜月が言った。
「そこで提案なんだけど、明日からは、私たち、お友達にならない?」
「……え?」
「これからも連絡を取り合いましょう」

 冷静に考えれば、それは多分、朔が虐待されていることを心配してのことだったのだろう。だが、それでも朔はうれしかった。
 これからも、菜月の声を聴くことが出来るし、会おうと思えばいつでも会えるのだ。高校生になっても、その先も、菜月が応じてさえくれれば、いつでも、いつまでも。
 菜月さえいてくれれば、たとえ辛いことがあっても、明るい気持ちで未来に踏み出せる気がした。そして実際に、朔の未来は急激に変わり始めた。
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