第88話 墓石を見つめたまま固まっていた朔と疲れ切った顔の望と緒川万砂子

文字数 1,125文字

「朔ちゃん?」
「……あ? あぁ」
 望に名前を呼ばれて、朔は我に返った。墓石を見つめたまま、しばらく固まっていたようだ。
 当たり前だが、弓岡家の墓はちゃんとあったし、墓石には、彫り跡も新しく、菜月の名前と享年、命日が刻まれていた。別に、望の言葉のように、菜月が生きているかもしれないなどと思っていたわけではない。
 だが、実際に墓石を目にすると、改めて、本当にもう彼女はいないのだという事実を突きつけられたようでショックだった。自分一人だったならば、まだしばらくの間、立ち尽くしていたかもしれない。
 
「大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だ」
 心配そうに朔を見ている望こそ、疲れ切った顔をしている。なるべ彼を歩かせないようにと心がけたものの、駅構内だけでもけっこうな距離があり、おまけに在来線の古い駅にはエレベーターがなく、松葉杖をついて階段を上り下りするのは大変そうだった。
 駅からここまではタクシーで来たが、朔にしても、何ヶ月も引きこもっていた後の久しぶりの遠出で疲れている。今夜は駅の近くのビジネスホテルに泊まることになっているので、早めにチェックインして、ゆっくり休むことにした。
 
 
 花を供え、交代で線香を上げて手を合わせると、もう一度墓石に目をやってから、その場を後にする。これで最後というわけではない。
 場所がわかったのだから、これからは、いつでもまた菜月に会いに来ることが出来る。望の歩調に合わせ、ゆっくりと墓石の間の通路を戻っていると、向かい側から女性が歩いて来るのが見えた。
 朔は、彼女をやり過ごそうと脇によける。だが、すれ違おうとしたそのとき、女性が立ち止まってこちらを見た。
「あの、すいません」

 朔は、初めて彼女をまともに見る。手桶と花を持った小柄な女性は、三十代くらいに見える。彼女が言った。
「失礼ですけど、影森さんじゃありませんか?」
 朔と望は、顔を見合わせる。
「お二人は今、弓岡家のお墓にお参りされていましたよね」
「はぁ」
 女性が、手桶をその場において、二人に向かって頭を下げた。
「私、緒川万砂子と申します。菜月さんの手紙をお送りした者です」

 二人して、言葉もないまま見つめていると、彼女が言った。
「もしお急ぎでなかったら、少し待っていていただけませんか?」
 再び顔を見合わせてから、朔が答える。
「はい、お待ちします」

 緒川は、二人が見ている前で、弓岡家の墓に参り、やがて戻って来て言った。
「今日は菜月さんの月命日なもので。よろしければ、これからどこかでお茶でもいかがですか?」
「はい」
「怪我をなさっているようですから、社務所でタクシーを呼んでもらいましょうか」
 緒川は、望の足を見てそう言うと、慣れた様子で、足早に社務所へと向かった。
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