第80話 苦しげに嗚咽する朔を呆然と見つめる望と過去の会話

文字数 970文字

 朔が、両手で顔を覆い、苦しげに嗚咽している。朔の長い告白を聞いた望は、呆然とその姿を見つめる。
 彼がそんな恋愛をしていたなんて、ちっとも気づかなかった。長年にわたって朔のマンションを訪れていたが、彼に女性の気配を感じたことは一度もなかった。
 だからといって、同性に興味があるふうでもなく、友達を作ることもしない彼は、そもそも人が好きではないのだとばかり思っていたのだ。だからこそ、自分だけはそばにいて、彼を支えたいと思っていたのだが。
 
「朔ちゃん……」
 朔が、涙に濡れた顔を上げる。その顔は、痛々しいほどに頼りなげだ。
「あの日、まさか望が、ここを訪ねて来るなんて思わなかった。俺は先生を失ったショックでいっぱいで、望のことは、すっかり頭から抜け落ちていたんだ。
 今さらだけど、ひどいことをして、ごめん」
 言いながら、朔は頬をぬぐう。
「そんなこと、もういいよ。僕こそ、朔ちゃんが、そんな辛い思いをしていたなんて、ちっとも気づかなくて……」

「言わなかったからな」
 そう言ってから、朔は、何かを思い出すように言った。
「こんな会話、いつかもしたような……」
 それならば、よく覚えている。彼の両親の葬儀の後、初めて朔のマンションに行ったときの会話だ。
 あのときは、望が「そんな辛い目に遭っていたなんて、ちっとも知らなかった」と言い、朔が「言わなかったからな」と答えたのだった。
 
 あのときの朔は、虐待されていることを「誰にも知られたくなかった」と言ったが、今度のこれは違う。十代半ばから、つい数ヶ月前までの長きにわたって付き合っていた恋人の存在を明かさなかったのは、恋人が秘密にしたいと言ったからにほかならない。
 恋人との約束を、彼女が亡くなってもなお頑なに守り続けていたのは、それほどに彼女を深く愛していたからなのではないか。それとも、辛くて口に出すことも出来ないほど、深く傷ついているせいなのか。
 
「朔ちゃん……」
 少しでも朔の助けになるならば、どんなことでもしたいが、自分に出来ることなどあるのだろうか。そう思っていると、朔がつぶやいた。
「もしも望が、ここを探し当てて訪ねて来なかったら、俺はどうなっていたかな」
「え?」
「あのとき何度も呼び鈴が鳴らなかったら、永遠にベッドから起き上がれなかったような気がする」
「そんな、怖いこと言わないでよ」
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