第21話 初めての恋と月の女神の絵を描くこと

文字数 1,010文字

「よかった。今年はもう、新入部員は来ないのかと思ったわ」
 その人が、そう言って微笑んだ瞬間、目の前から、その人以外のすべてが消えた。その人の名前は、弓岡菜月。
 教師になって二年目だという彼女は、二年生と三年生を合わせて、わずか五人の弱小美術部の顧問だった。朔は初めての恋に落ちた。
 そしてその恋は、その後の長きにわたって彼の心をとらえ続けることになる。
 
 
「そう、いいわね。でも、物の形をもう少しよく観察すると、もっとよくなると思うわ」
「はい……」
 菜月が、朔の肩越しにスケッチブックをのぞき込むと、ふわりと甘く優しい香りが漂った。それだけでもう、何も考えられなくなってしまう。
 ほかの部員のもとへと近づいて行く菜月の後ろ姿を見ながら、朔は、いつの間にか止めていた息を吐いた。あぁ、先生は、なんてきれいでいい香りがするんだろう……。
 
 
 毎日、放課後が待ち遠しくて仕方がない。ホームルームが終了した瞬間、朔は鞄を持って立ち上がり、素早く教室を出る。向かう先は、美術部の部室だ。
 もちろん、絵が好きだから、絵を描くために美術部に入ったのだが、正直なところ、あまり創作がはかどっているとは言えない。頭の中は菜月のことでいっぱいだ。
 早く先生に会いたい。近くで先生を見たい。出来ることなら、ずっとそばにいて……。
 その気持ちだけで毎日を過ごしていると言っても過言ではなかった。
 
 
 そんな思いを隠し切れていなかったのか、ある日部室で、二年生の女子の一人に言われた。
「影森くん、さっきから入口ばっかり見てる」
「え……?」
 彼女はにやにやしている。
「菜月先生、今日は遅いね。職員会議が長引いてるのかな」
「あっ、いや……」
 顔が、カッと熱くなる。
「影森くんってわかりやすーい」
 


 自分は普段から、感情を隠すのがうまいほうだと思っていた。それは父に対しても、それ以外の人に対しても。
 父に心の内を悟られたくないし、父の暴力のことは誰にも知られたくない。だから、人とはなるべく距離を置いて、誰とも親しくしないようにして来た。
 腹が立っても、辛くても、すべて押し殺して、常に無表情を装って来たのだ。
 だが、初めての恋愛感情は、どう動くのか予想がつかず、自分でも持て余した。ただ、菜月のことが好きでたまらない。
 
 
 やがて朔は、部屋で一人、菜月の絵を描くようになった。
 儚げなのに、凛として美しい、女神のような人。先生には、月がよく似合う。
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