第69話 からかう菜月とあわてる朔と寂しい気持ちを紛らせてくれること

文字数 922文字

 その日の夜、そろそろシャワーを浴びて寝ようかと思っているところに、菜月から電話がかかって来た。
「影森くん」
「先生。体調はどう? 疲れてない?」
「ありがとう、大丈夫よ」
「よかった……」
「今、自分の部屋からかけてるの。君は大丈夫?」
 優しい言葉をかけられた途端、鼻の奥がツンとする。
「仕事を切り上げて、シャワーを浴びようかと思ってたところ」
 すると、菜月が言った。
「そうなの。じゃあ、邪魔しちゃいけないから、もう切るね」

 朔はあわてる。
「待って、切らないで! シャワーなんていつでもいいんだから」
 電話の向こうで、菜月がくすくす笑っている。
「あっ、からかったの? ひどいな」
 菜月が、まだ笑いを含んだ声で言った。
「ごめんごめん、ほんの冗談よ」
「もう。先生も人が悪いな」
 そう言いながら、菜月は自分を元気づけようとしたのだと気づく。
 
「ご飯は食べた?」
「うん」
「コンビニのお弁当?」
「うん。でも、バランスを考えて、サラダも買ったよ」
「そう、えらいね」
「サラダくらい、子供じゃないんだから」
 二人して笑った後、菜月が言った。
「これから、いつもこのくらいの時間に電話していい?」
「もちろん。先生の電話を楽しみに、毎日仕事をがんばるよ」


 その後も、他愛ない話をして、「おやすみ」を言い合って電話を切ったときには、一時間ほどが過ぎていた。
 菜月が毎晩電話をかけて来てくれるのはうれしい。だが、多分それは、自分からかけてはいけない、つまり、菜月からかかって来るまで待たなくてはいけないということなのだ。
 菜月はこれから家族と暮らすのだし、通院もある。今までのように、いつでも好きなときに朔からかけるわけにはいかないのだ。
 
 
 それからは、毎晩の菜月からの電話だけを楽しみに一日を過ごすようになった。絵を描く気力がなかなか起きなくて困ったが、菜月を悲しませたくない一心で、毎日絵筆を取った。
 菜月の治療は、すぐに結果が出るというものではないらしく、いつまで続くのかわからない。会いたくてたまらないが、一番辛いのは菜月なのだと自分に言い聞かせ、電話のときは、なるべく明るくふるまうよう心がけた。
 寂しい気持ちを紛らせてくれるのが、何年も続いている望の訪問だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み