第78話 絵筆を投げ出してしばらく泣いた後思い出したこと

文字数 870文字

「駄目だ……」
 絵筆を投げ出すなり、涙がこみ上げ、朔は、そのまましばらく泣いた。今の自分に、夢見るような表情など、描けるはずがない。
 今まで朔が描き続けて来たのは、外見の差こそあれ、すべて菜月なのだ。朔はずっと、胸の中にある、美しく優しい月の女神、すなわち菜月のイメージを形にして来た。
 一生、そばで輝いていてくれると信じて疑わなかった月の女神を失った今、描けるものなど何もない。菜月が亡くなった今、自分の人生も終わったのだ。
 泣きながら、ふとあることを思い出す。あれは今年、いや去年だったか。
 
 
 絵の参考にしようと、パソコンでいろいろな風景や建物の検索をしているうちに、洋館に興味を持つようになった。一度は、あんな優雅な建物で暮らしてみたい。
 自分は、観光など、出歩くことはあまり得意ではないが、洋館を買って別荘にして、ときどき、そこでのんびり過ごすというのはどうだろう。十代の頃から、ずっと休みなく仕事を続けて来たが、そろそろ、そういうことも許される時期に来ているのではないか。
 将来的には、そこで菜月と二人で暮らすのもいいかもしれない。子供が出来れば、そこで子育てをしてもいい。
 
 そんなふうに思い、気まぐれに物件を検索しているうちに見つけたのが、××市にある洋館だった。イギリス人が別荘として建てたものを、母国に帰るときに手放したのだという。
 それほど大きくなく、建っている場所が観光地でも避暑地でもない、悪く言えば、ただの辺鄙な田舎町だという理由で、築年数のわりに、今の自分の収入でも十分に手の届く、破格と言っていいほどの値段だった。
 少しだけ迷ったものの、今までしたことがなかった、自分へのご褒美という名目で、初めて大きな買い物をしたのだった。
 
 
 購入時に一度だけ訪れたものの、忙しさに紛れて、それきりになっていた。電気と水道さえ通せば、すぐに使える状態だと業者が言っていたはずだ。
 仕事を辞めて、あそこで静かに暮らそう。一度思いつくと、もうそのことしか考えられなくなった。何もかも投げ出して、苦しみから逃れたい一心だった。
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