第98話 感謝の気持ちと心の整理がつかないこととカフェの再開

文字数 890文字

 朔は、ごろりとベッドにあお向けになり、天井を見つめる。
 望に感謝しているのは本当だ。両親の葬儀の後にマンションについて来た日からずっと、何度も崩れ落ちそうになる気持ちをなんとか持ちこたえて来られたのは、彼がいてくれたことが大きい。
 ここを探し当ててやって来たときも、ほとんど押しかけるようにして引っ越して来たときも、もしもそれがなかったら、大げさでなく、今頃自分は生きていなかったのではないかと思う。
 そして、菜月のことも。望が言わなければ、自分では、彼女の墓を探すことなど考えつきもしなかったに違いない。
 彼が探偵に依頼しなければ、墓参りはおろか、緒川に会って話を聞くことも、菜月の絵葉書とネックレスを手にすることも出来なかったのだ。
 
 だから、あまり彼に心配をかけてはいけないと思うのだが、菜月に関することは、まだ心の整理がつかない。あるいは、一生つかないかもしれない。
 それは、これからのことに関しても同じだ。絵が描けなくなった自分に、ほかに出来ることがあるとは思えないし、先のことは何も考えられない。
 長い間、絵の仕事を続けて来たおかげで、当分生活に困らないくらいの貯金はあるし、皮肉なことだが、父が残したものもある。だが、それで心が満たされるはずもない。
 菜月を失ったことが辛くてならない。菜月に会いたくてたまらない。もう二度と会えないのだと思うと、苦しくて、胸が潰れそうで、一人でいると、ふと涙が溢れて止まらなくなることがある。
 
 
 ある日の朝食のときに、望がトーストにバターを塗りながら言った。
「あのさ、もう少し足がよくなったら、またカフェを再開しようと思ってるんだ」
「えっ、そうなのか?」
 思わずそう言うと、望が、むっとしたようにこちらを見た。
「何、その驚いた顔は。もしかして、もうカフェはあきらめたと思ってた?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
 と言いながら、実は図星だ。いくら入りにくい場所にあるとはいえ、あんなに客の来ないカフェもめずらしいのではないか。
 望の料理は、とてもおいしいし、見栄えもいいと思うが、それだけでは駄目なのだとつくづく思ったものだ。
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