第62話

文字数 1,570文字

 電力はこの本堂では使われていないようだ。本堂の中を照らす光源はこの薬師如来像を照らすロウソクと、本尊を囲う二本の横板を支える四隅の支柱の上に薬師如来像のロウソクよりも少し小ぶりなロウソクが燃えているだけだった。その小ぶりなロウソクはそれぞれの食べ物を模した擬宝珠を優しくも怪しく照らしていた。
 慶長が薬師如来の足元に置いている前机を整理しているのが見えた。黒漆が黒々とひかる、四隅に彫金が施されただけのいたってシンプルな作りの前机。慶長はその引き出しから香炉に入れる香炉灰を掬うスコップの様なものを片付けようとしていた。
「どうも」
 亮介は背を向ける慶長に声をかけた。
 自分ではかなりボリュームを下げたつもりの声だったが、静まり返った本堂では思いの外大きく感じた。
 慶長がこちらに気づき顔をあげた。
「おお、亮介さん。夜分に申し訳ありません」
 慶長は引き出しの扉を音もなく閉じ、前机の上を傍に置いていた雑巾でサッと一拭きして形ばかりの合掌をした。
 そして、改めて亮介に向き直り
「ちょうど夜の仏様のお掃除が終わったところです。」
 とよく通る声で言った。
「我々は日々こうして、お掃除をさせていただいています。」
 とまた合掌をした。静かな本堂に慶長の言葉が響く。
「へぇー、毎日同じように掃除するなんて、お坊さんも大変なんだね。」
「いえいえ、お掃除は最も大切な修行の一つとされていますから。これは苦ではありません。」
「はあ、何でも修行なんだ。」
 亮介は慶長の生真面目な勤勉さに感心するとともに、幾分かの不器用さも感じた。
「ところで、コバトが目を覚ましたって?」
 亮介は本題に入った。
「そうなんです。突然目を覚ましたらしく、私が夕方のお勤めをしていると、この本堂にフゥッと姿を現したんです。」
「夕方に。俺、完全にその頃きっとバイトの真っ最中だったわ。なんか申し訳ない。それで?今は?」
「それが、ふらふらとこの本堂にやってきて、何かを確認するように周りを歩いたらまた部屋に戻ってしまったんです。」
「じゃぁ今は、あの部屋にまだ居るってことだね。」
「そうです。あの子がどこにも行っていなければ。」
 亮介はゆっくりと本堂を見回した。特段変わったところはない。相変わらず奇妙に輝く薬師如来像と両脇の菩薩が並んでいる。
「とにかく、部屋に行ってみよう。」
 二人は奥の離れにある部屋に向かった。
 本堂から離れに至る渡り廊下は、外気に触れひんやりとしていた。あかりは無く、合わせ木の板間はギシギシと二人のはやる足音を強調させた。
 暗い夜の渡り廊下を渡りきり、二人は観音堂に入った。観音堂の中は抑え気味のオレンジ色の光で照らされ、本堂ほどの薄暗さは無く部屋の様子が確認できた。昼間に見た真新しい十一面観世音菩薩は、厨子の扉が閉じられその様子は見られなかったが、木の独特の匂いが鼻腔をくすぐる。亮介は迷わず右の部屋にむかい、慶長は一旦立ち止まって観音菩薩が収められている厨子に向かって合掌、一礼をした。
 亮介は部屋の扉の前に立ち、息を整えた。短い距離の移動だったのに、妙な緊張感からか胸は高鳴り呼吸は少し乱れていた。
 亮介はすりガラスの扉の取っ手に一旦手をかけたが、すぐに手を離した。深く深呼吸をし、気持ちの落ち着きを少し待ち、静かに扉を開けて畳敷きの部屋にはいった。
 部屋の中は新しい畳から出るい草の匂いとお香の香りが混ざり合い、部屋中に行き渡っていた。亮介にこの匂いは心地よく、より気持ちを落ち着かせた。
 部屋に明かりは無く、窓からさす月明かりだけが青白くボンヤリと部屋全体に膜を張ったような印象を持たせた。そんな整理整頓が行き渡った薄暗い部屋の真ん中に敷かれた布団の上にコバトは背中を向けて座っていた。
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