第2話

文字数 3,063文字

若葉が芽吹き、風が爽やかさを運んで来る季節。
 優しい日差しが穏やかに全身を包み込んだ。
 中川亮介は翔陵川の三角州で足を川に浸して疲れた体を休ませていた。
「ふぅ、やれやれだぜ。」
 明らかに人の手が入っている規則的に並んだ飛び石を、川の水面が避けるようにダラダラと流れている様子を眺めていると、今まで起きてきた出来事もなぜか現実味を持たなくなっていた。
「何で俺がこんな目に会わなきゃならないんだ。」
 先週の金曜日、不思議なオトコに声をかけられてから、亮介の日常は一変した。
 ちょうどその頃は、昨年度末の成績が程々に良くて、親から念願のアルバイトを許してもらえたので、前から目をつけていた家の近くのスーパーマルカツで働き出して一カ月ほど過ぎたころだった。
 古くからの寺社仏閣が多く点在するこの街が、観光客で溢れかえる四月の上旬に亮介はこのスーパーマルカツに簡単な面接で即日採用になった。
 亮介がスーパーマルカツで働こうと思ったのは、無類の漬物好きだったからだ。特に、このスーパーマルカツは亮介の大好物の『鈴なり茄子の辛子漬け』が置いてあった。
 この漬物は『きらら漬け』として有名な小茄子の辛子漬けをアレンジして、小茄子を大ぶりな鈴なり茄子に変えた商品である。
 この漬物の特徴は何よりも食べ応えである。普通の『きらら漬け』は小さな茄子をひとつまみして食べる。しかし、これではついつい何度も箸を運ばなくてはならない。その点『鈴なり茄子の辛子漬け』は元から大ぶりな茄子なので自分の好きなサイズに切って食べられる。丸ごと一つ熱々のご飯の上に乗せてゆっくり辛子の刺激と茄子の旨みを堪能するもよし、小口に切り分けて茄子の周りに付いた辛子味噌を綺麗に落としてから小皿にでも盛り付けてお上品に頂くのもよしである。もっとも、そのスタイルで『鈴なり茄子の辛子漬け』を食べると毎食ごとに食卓に並んだとしてもゆうに1週間は持つ。
 その『鈴なり茄子の辛子漬け』を置いてある店は非常に少ない。それもそのはずで、この『鈴なり茄子の辛子漬け』はいわゆる自社ブランド製の商品で、スーパーマルカツの営業部長が趣味で作っていた漬物を社長がエラく気に入って、自分のところで作ろうと四苦八苦しながら何とか昨年の春に商品化にこぎつけたものだった。
 この商品は一年間でスーパーマルカツの小売だけでなく、料理屋にも卸せるくらいに急成長した。
 亮介の母親がたまたま立ち寄ったこのスーパーマルカツで初めて『鈴なり茄子の辛子漬け』に目をつけ、中川家の食卓に並んで以来亮介は虜になってしまった。

 その日は商品の『鈴なり茄子の辛子漬け』の配達と挨拶まわりを言われた。亮介にとっては初めての配達で営業バイクに乗るのは初めてだった。
 何故アルバイトの高校生が営業バイクに乗るハメになったのかというと、先日たった一人の平社員である緒方がやめてしまったからだ。緒方は亮介がアルバイトを始めたときにいろいろと教えてくれた頼れる兄貴分だった。商品の品出しのから陳列の並べ方、お惣菜を調理するフライヤーの扱い方など丁寧に教えてくれた。亮介は緒方を頼り、信頼し、尊敬していた。
 そんな緒方が「体調不良」とだけ書いた手紙を一通、店の奥の調理場に置いたままでそれ以来店にも顔を出さなくなってしまった。社員二人、アルバイト、パート含めて十四人の小さなスーパーマルカツはたちまち立ち行かなくなり、社長や部長は出張に飛び回り、店の中はベテランのパートのおばさんが取り仕切っていた。
「これはただの商品の配達ではない。マルカツのこれからの命運をかけた営業だ。」
 と初めて外に出る亮介に部長は声をかけた。
「営業の基本はマメな挨拶と契約を取りたいという強い気持ちと、それを隠す演技力だ!マメな挨拶は顔を売ることでコミュニケーションが上手く円滑に回る。そして、各顧客にあなたは特別な存在で、ウチにはなくてはならない大切なお客様なのですよ、と印象づけるのだ!要は、顧客に特別感を持ってもらうことで、次の契約が取りやすくなるというわけだ。こんなことはどこの営業マンでもやっているのはわかっている。だから、そこに自分流のアレンジを加えなければならないのだ!」
 まくしたてるように部長は言っていた。
「いや、オレ、バイトですし。そんな営業なんてしたことないし、責任重すぎるし…。」
 亮介は断ろうとしたが先日にたった1人の営業部もこなしていた緒方が辞めてしまってまだ後釜が見つからないままであった。
「中川亮介君。君にこの仕事は難しいと思う。確かに、君はアルバイトの身だ。それに一月ほどしかたってもいない。もちろんそれは分かっている。だが、しかーし!ウチは人が足りていないのだ。」
 部長の声が大きくなった。
「君はバイクの免許がある。バイクはここにある。商品も揃っている。私には免許がない。誰がこの商品を配達に行くのだ!そう、君しかいないのだ!」
「いやいや、おかしいでしょ。」
「おかしくない!君しかいないのだよ。だからね、お願いね。配達。」

 料理屋にお渡しする社長の名前が入った熨斗で包まれた菓子折りとともに、この仕事はひたすら市内を営業バイクで走り回る。
 この街はシーズンになると登山客で賑わう柊山と険しく高い山だちの綱領山に東西を挟まれ、その間を一級河川の翔陵川が流れている。綱領山側より柊山の方が発展している。どちらかというと、綱領山は住宅街で、柊山側は商業施設や官公庁が多い。
 ここから西側の回院方面に行くには、バス専用道路ができて渋滞がひどくなった六丸通りと河川通りは避けなければならない。となると、その北側の沼川通りか四丸通りのどちらかになる。
「さてさて、どちら側から行こうか。」
 この選択は非常に難しい。
 四丸通りを選択するならほぼ一直線で回院方面に抜けられるが、四丸通りから五丸通りを通って六丸通りへは必ず小さな渋滞ができている。ここは官公庁が並ぶ一番の渋滞ポイントだ。かといって、今いる川畑通りから沼川通りは多分大きな渋滞は無いだろうが、その先が問題だ。沼川通りから回院方面に行くには一度南に進路を変えなければならない。翔陵川沿いに走る沼川通りは車の往来が激しい小宮通りを抜けていかなければならない。どちらにせよ、あのダラダラと進む気だるい時間を過ごすことには変わりないようだ。
 亮介はどちらにバイクを向かわせるか悩んでいた。今の所、川畑通りはスムーズである。初夏の日差しに桜並木の葉が暖められて、緑色の風が爽やかにヘルメットの中を通り過ぎて行く。信号待ちの車のカーラジオからは陽気なレゲエミュージックが流れていた。
 時計を見ると、約束の時間まで後30分を切っていた。このままだと、どの道を通っても間違いなく遅刻する。
 亮介は1番近くのコンビニにバイクを停めて、先方に電話をかけた。
「すみません。本当に申し訳ないですが、道がエラく混んでまして…はい…えぇ…はい、わかりました。すみません。では後ほど。」
 向こうさんは何とか予定の時間を遅らせてくれた。ホッと一息ついたところ、突然後ろから
「きぇーっ!はぁーっ!きょぇわーっ!」
 という奇声が聞こえて来た。と同時に亮介の乗っているバイクがユサユサと揺れ出した。
「何?何事!」
 亮介は自分に一体何が起こっているのかわからないまま辺りを見渡した。
「きぇーっ!あーっ!じょーっ!つぁーん!」
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