第56話

文字数 1,861文字

「あ!バイト!」
 急に思い出した。こんなにゆっくりとしてはいられない。バイトの時間が迫ってきていた。遅刻は厳禁だ。タダでさえ人員の足りていないスーパーマルカツはベテランパートのおばちゃんの高木さんにシフトやら何やらを全て任せている。おばちゃんは時間に厳しい。特に入れ替わりの時間はかなりのこだわりを持っていて、少しでも遅れようものならチクチク嫌味を言われながらエプロンをつけなければならなくなってしまう。入れ替わりの相手が他のパートさんなら特に問題ないのだが、今日に限って、その相手はベテランパートの高木さんだ。ダラダラと感傷に浸っている場合ではない。とにかく、急いでバイクを走らさなければ。
 亮介はミランを胸ポケットに戻し、立ち上がった。
「俺、今からバイトだし。行くわ」
 そうブッケンの三人に告げて歩き出した。ブッケンの三人には聞こえたのかどうかわからない。何しろ、三人は地図を広げて、何やらボソボソと相談していた。三人は三人の世界に入り込んでいて、こちらに向こうともしなかった。

 バイトにはギリギリ間に合った。汗をかきながらクーラーの効いた店内を横切り、クロークへ入ったと同時にベテランパートの高木さんが奥の倉庫から在庫の「すずなりナスの辛子漬け」の段ボールを抱えて入ってきた。
「あ、お疲れ様です。」
 亮介はつとめて元気に挨拶をした。
「お疲れ様。早くエプロンつけて、品出ししておくれ。もう人手が足りなくて、忙しい、忙しい。」
 高木さんの機嫌は悪くないようだ。
 ふぅっと胸を撫で下ろして、亮介はロッカーの扉を開けて、カバンをしまい、エプロンをつけた。
 店内は夕食の食材を求める客でピークを迎えていた。三つあるレジは埋まり、それぞれに長い列を作っていた。
 社長が珍しく品出しをしている。部長は第一レジを担当している。残り二つのレジはパートのおばさんが切り盛りしていた。社長に笑顔はなく、ただ淡々と目の前のプラスチックトレーからパック詰めされた鯖の切り身を冷蔵棚に並べる仕事をこなしていた。パートのおばさん達は、愛想の良い笑顔とよそ行きの声で、気だるそうに並ぶ客を見事にさばいている。
「今日の仕事も大変だったんだろうけど、部長もう少しまともな笑顔とか出来ねぇのかな?」
 亮介は素朴に思った。部長の笑顔はいかにも作り笑いで、唇の両端が単に顔の筋力で持ち上げられただけの張り付いた笑顔になっていた。お客が商品を会計するためにサッカー台に置いた時に言う
「いらっしゃいませ」
 も気持ちが全くこもっていない。テンプレ挨拶に終始している。もちろん、
「ありがとうございました」
 も同様だ。
 亮介は一旦、クロークに引き返して、パックに小分けにされた精肉をプラケースから取り出し、専用のトレーに乗せてもう一度店内へ入っていった。
 ほんの一瞬店内から目を離しただけだが、さっきよりもっと客が増えたように感じた。

 今日の仕事はいつもよりも増して忙しく思えた。客が増えると品出し番の亮介の仕事量も増える。生鮮食品はプラケース、乾物は段ボールから商品を取り出し、ひたすら補充をしていた。今日はなぜか漬物コーナーの品出しが多かった。普段なら閉店間際に確認する程度で済むはずのコーナーが今日は引っ切り無しだった。特に特売品となっていた「すずなりナスの辛子漬け」がやたらと出ていたように感じる。亮介はひたすら店内とクロークの往復をし続けた。
「はぁー、今日は疲れたなぁ。」
 今日一日の出来事をまとめて吐き出すように亮介はため息をついた。
 朝から学校で授業を受け、放課後はマノコ退治だし、バイトはこの忙しさ。もう、一週間分の体力を使ったような感じがしていた。
 後は、今付けているエプロンを外して上着を着てロッカーの鍵をかけて店を出ていくだけだ。
 あと、スリーステップで、解放される。そう思うと心なしか気持ちも体も軽くなるようだ。
 亮介が扉の開いたロッカーにエプロンをかけて、上着を手にした時、上着の左胸に何やら重さを感じた。それは、上着全部が重くなっている訳ではなく、ズシッと左胸のそこだけが重たい。
 亮介は不思議に思い、左胸の内ポケットの辺りに上から手を乗せてみた。
「何か入れていたかな?」
 マノコのミランには重量は無いし、スマホはいつもお尻のポケットに突っ込んでいる。ハンカチを持たない亮介は高校に入学してから一度も内ポケットにものなんて入れたことがない。
 特に変わった様子はないようだ。
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