第89話

文字数 1,054文字

 部長は残り数歩の距離で亮介を追うのをやめた。部長は動きを止め、持っていた灰皿を両手いっぱいに伸ばし、前へ差し出した。その光景は何かの儀式が始まるかのように、ゆっくりと、確実に実行されているように見えた。部長の持つ灰皿の中身が細長く形を変えゆっくりと、枝分かれを始めた。それらはミミズのようにウネウネと揺れ動き、一本ずつが意思を持ったように、うねり、絡まり合いながら上昇と下降を繰り返した。その不気味な動きをする綿埃のような塊の先端部分が部長自身の目や鼻、口、耳といった顔中の穴に向けて侵入しだした。
 部長は傾いた首のままその状況を当たり前のように受け入れているのか、身動きすらしない。それどころか侵入をより促すようにその場にゆっくりと跪き大きく息を吸い込んだ。黒い棉埃の塊は部長の顔面から体内への侵入を加速させた。灰皿にあった黒い綿埃の塊が全て部長の体内に入りきった時、部長は仰向けになり海老反りに仰け反った。
「ぐわわわわー」
 部長がこの世のものとは思えない叫びでのたうちまわった。
 その時、その様子を慶長の後ろで見ていたブッケンの三人の数珠が真っ赤になり、弾け飛んだ。
「何ですかこれは!とてつもないパワーです。ここは磁場が強すぎます!こんなに磁場が強ければ亮介さんのミランも出てこられない!とにかく、一刻も早くここから出ましょう」
 五人の意識は一目散にクロークの出口に向かった。
 調理場の地面に仰向けになった部長の体はピクピクとあらゆる筋肉が痙攣を起こしていた。
 五人の足は店内に向けて走り出そうと踵を返した。目指す先は観音開きで銀色のアクリル製の扉である。
 痙攣が収まった部長は、静かに立ち上がりフラフラとまた五人に向かって歩き出している。
 まずはじめに西村と門田が店の中に飛び出した。それから、二人は扉を開けっぱなしに固定した。続いて深雪が大きく開いた出口から出てきた。
 しかし、亮介を肩に担いだ慶長の動きは遅い。後ろから部長が迫って来る。
「慶長さん!早くっ!」
 深雪が大きく手招きする。
 慶長の額から粒のような汗が吹き出してきた。亮介の意識はほとんど飛んでしまっている。慶長の足元は油にまみれよく滑る。力の抜けた亮介を担いで逃げる慶長の太ももの筋肉はもう限界に近づいている。
 あと数歩で扉の先に着ける。何とか最後の力を振り絞り、慶長は両足に力を込めた。その時、慶長の肩が何かに触れた。その感触はあまりにもリアルだった。振り向くとそこには部長の傾きニヤけた顔があった。
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