第71話

文字数 1,987文字

「緒方さん。久しぶりです。どうしてここに?」
「いや、俺の家この近所だからさ」
 久しぶりに見る緒方の声は小さく聞き取りずらかった。寝癖がひどく、無精髭も生え放題でまったく手入れはされていない。働いていた時の緒方は責任感があり、動きに全く無駄がなく、キビキビと効率よく仕事をこなす優秀な社員であったが、今はずいぶんくたびれた様子で当時の面影はまったく感じられない。
「それより、こっちこそなんでお前がこんなところに」
「変質者探しですよ」
「なんだそれ?」
「この先の山側にある公園でこの子が変なおっさんに声をかけられたんです」
 ドロッとした目で緒方は亮介たちを眺めている。
「それで、僕たちはそのおっさんを探して歩いて回っているんです。緒方さんこの辺で変なおっさん見ませんでしたか」
「いや、ずっと引きこもってたから」
「そうですか」
 亮介は緒方を傷つけてしまったような気がして、少し声のトーンが下がった。
「そういえばお前まだあのスーパーで働いているのか?」
「はい」
「そうか。なんか突然やめて申し訳なかったな」
「いえ、緒方さんのことだから何かものすごく大きな理由があったんだろうと思っていますよ」
「あの時なぁ、本当に体調が悪くなってしまって。俺も不思議で仕方がなかったんだわ。だって普通に楽しく仕事ができていたんだぜ。それが突然ある日やる気がなくなってしまって体力どころか気力までなくなってしまったんだ」
「はあ、なんでですかね。僕は緒方さんが毎日楽しそうに働いてるところを見て少し尊敬もしていたんですよ」
「店を辞めた後家に引きこもって俺は深く考えて見たんだ。それで俺はね、なんとなく原因がわかったかもしれないんだ。原因はあの店だ。あの店には何か得体の知れない不思議なネガティブな雰囲気が漂い出していたんだ」
 緒方の目に少し力が入った。
「俺が入った頃はそんな風でもなかったんだ。俺はその場の雰囲気を察知して空気を読む。なんて言うか、つまり空気に敏感な方なんだ。ところが、今年に入ってその暗い雰囲気が出てきたように感じる。特に調理場の奥は気持ち悪かった。一人であの調理場に立って惣菜を作っていると背筋がゾクゾクっとなって包丁を握る手が震えていたんだ。後ろの方には在庫だろ。その奥は金庫と事務所じゃない。基本的に事務所には部長と俺がいるだけだよね。たまに社長がいてたけど。あとは、高木さんか」
 高木さんはベテランパートのおばちゃんだ。高木さんはバイトのシフト決めやら、商品の発注などあらゆる事務仕事ができる。しかし、嫌味っぽい性格からバイトの間ではすこし敬遠されていた。緒方は自分が入社するよりも前に働いていた高木さんにかなり遠慮していた。
「その在庫の段ボールの奥の方から黒いモヤのようなイメージが湧いて出たんだ。それが何なのかわからない。わからないけど確実に良くないことだということがわかった。その雰囲気を感じ取って以来、俺は調理場に一人でいることを極力避けた。毎日が張り詰めていたよ。緊張の毎日だった。」
 緒方の目からより一層の熱量を感じた。
「でも、緒方さんが基本一人でお惣菜作ってましたよね。シフトに確認や着替えぐらいで、店が開いたらみんなあそこにはなかなか入らないし」
「そうなんだ。一人にならないなんて所詮無理なことなんだ。そして俺は徐々に徐々にその雰囲気に飲み込まれるような気がしてきたんだ。ここにいると俺は何か得体の知れないものに取り込まれすべてが終わってしまうそんな気になった。そう感じるともう無理だった。もう逃げるしかなかった。もう緊張がピークに足した時、衝動的に俺はその場にあったメモに走り書きをしてその場から逃げ出した。それから、一歩も外に出られなくなった。今では立派な引きこもりさ。やっと最近は近所に散歩くらいはできるようになったけどな」
「その事を社長とかには話せてないんですよね」
「話せるわけねぇだろうが。いきなり飛んだやつだぞ。合わせる顔もないよ」
「でも、一応話しておいた方が」
「いやいや、無理だろ。話したところで誰がこんな話信じる?頭がおかしくなったでお終いだよ。ま、君子危うきに近寄らずだよ。いろんな意味で。とにかくあの店は何かある。気をつけろよ。それにお前たちも変質者探しなんかせずに早く帰りな。君子危うきに近寄らずだよ。じゃな。」
 そう言って緒方は重そうな足取りでコンビニエンスストアを出て行った。
 店内には陽気な流行りの音楽が流れている。
「今の話信じる?」
 亮介はブッケンの三人に目をやり尋ねた。
「信じるもなにも…マルカツに行きたい?」
 答えは聞くまでもなかった。三人の目は好奇心に満ちて爛々と輝いていた。
 時刻は午後五時半。どんよりとした雲が太陽を隠し、雨を降らせる準備が整っていた。
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