第88話

文字数 1,048文字

 途中、床に置いていた油の缶に足が当たり派手に新品の油を撒き散らしてしまった。全身、油と埃とヘドロのような汚れにまみれながら、それでも何とかみんなの待つ扉の前にたどり着こうともがき這いずる。新しい油と使い古され腐った油が混ざり合い、そこに魚や肉の独特の獣臭が混じり合った匂いが全身を包んだ。腹の中から未消化の食べ物が逆流してくる。喉元から口の中へキリキリとした熱いものが這い出してくる。亮介は我慢できず、胃の中のものを床に撒き散らした。亮介の顔は、吐瀉物と涙や鼻水、ヨダレでドロドロに汚れきった。もう残っているものは何もないはずなのに、亮介の胃は体内に侵入した異物を排除しようともがいている。普段ならほんの数歩でたどり着く距離なのに、今は途方もなく彼方に感じられる。
 部長は不気味な笑みを浮かべゆっくり近づいて来る。部長の足も覚束ない。全身がユラユラと揺れている。
 亮介は床から顔をあげられなくなっていた。あらゆる病苦の苦しみが体全体を襲う。亮介はキッチンの扉の前でうつぶせに倒れこんでしまった。もう腕の一つも動かす力は残されていない。油の粘度と床のザラつきを頬に感じる。こちらに近づく部長の足が見えた。意識は遠のいていきそうで、うすぼんやりとしていたが、その光景は亮介の目を見張るものだった。
 部長の足は浮いていた。
 床に飛び散った油の塊は揺れることもなく、その形を保ったまま、波紋や油の雫も飛ばない。それなのに、部長は歩いている。ユラユラと揺れながら左右の足を交互に出している。首は傾き、肩は落ち、それでもニタリと笑いながら。
 強張る全身の筋肉と止まらない冷や汗。汚れと腐った油の匂い。亮介は嫌悪というよりも、この騒動が始まって以来初めて恐怖を感じた。
 亮介は固く目を閉じ、聞こえるはずもない足音を聞いた。もう部長はあと数歩で亮介の鼻先に触れる。全てが闇に包まれた時、亮介の体は高く引っ張り上げられた。
「大丈夫ですか?」
 亮介は慶長に調理場から引きずり出された。
「中で大きな音がしたので、様子を見ようと思って扉を開けたんです」
「助かった。とにかくここから出なきゃ」
 亮介は詰まる喉から絞り出すように声を出した。
「あの人は?」
 慶長は部長を見ていた。
「部長。…黒幕…とにかく…早く」
 灰皿を持った部長がゆっくりと近づいて来る。
 慶長はドクドクと血液が全身に巡るような熱さを感じた。この場所に留まっていてはいけない。本能的に慶長は感じ取り全身の筋肉を強張らせた。
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