第51話 いづみ川

文字数 1,014文字

 都市のビルに隠れた川は、夏のむせ返るような匂いを放っていた。川は流れていないように見え、水面に浮かんだ季節外れの枯葉は陽の中で動かず止まっているようだった。川の色は緑をより深く晒している。
 会社の同僚と煙草を吸いながら狭い川の対岸を眺めていた羽山敦は、ずっと繋がれたままになっている屋形船が気になった。
「あれ、年明けの騒ぎからずっとあのままなんですかね」
 同僚は聞こえなかったのか煙草を灰皿に捨てると、建物の中へと戻っていった。
 屋形船の屋根の上では鳩が羽を休めている。のどかでもあり、どこかジオラマのような作り物の光景だと敦は思った。屋根の所々に残された白く乾いた糞の跡は鳩の主張であり、船は人間の手から離れ、もはや鳩のものになったのかもしれない。
 時計の針を刻む時間も上がり続ける気温に狂わされ、敦は真夏のこの昼休みが永遠に続きそうに思えた。テレワークを実施している会社のオフィスにほとんど人はおらず、用事のために久々出社した敦は仕事に身が入らなかった。休み時間が終わっても咎める上司もいない、敦はだらだらと川を眺め続けた。
 屋形船も鳩も、川の水も枯葉も、そして敦も、今年の夏の底にじっとしている。ずっと前から変わらずこのままだったのか、それとも今年から止まってしまったのか、敦は生まれてからずっとここでこうしてきたような気もしてきた。
 やがて屋形船は錆び、鳩や敦はミイラになって、干上がる川と変わらない枯葉の姿だけが残されるのであろうか。頭で他のことを考えようとしてみても敦には全くできず、眼前の止まったままの景色と一緒に、時の糸でがんじがらめに絡まってしまっていた。
「もう、どうでもいいや……」
「ああ、本当にどうでもええわ……」
 砂利を踏む足音が聞こえ敦が振り向くと、ちょうど部下が屈んで小石を一つ拾い上げていた。得意気な顔で部下は敦の横へ進み出ると、水面に浮かんだ枯葉へ目掛け小石を全力で投げつけた。小石は一直線に枯葉のすぐ手前の水面に飛び込み、勢いよく飛び散る細かい飛沫、枯葉は表面に水滴を輝かせふらふらと揺れている。慌てふためいた鳩は、羽を激しく羽ばたかせ飛び去って行った。
「先輩、さぼりっすか。俺もやる気ないんで、さぼってええっすよね」
 敦は、さっきまで見ていた光景に音がなかったと思った。
「会社も時間も止まってるし、俺らが止まってても誰も文句言えんよ」
 敦と部下は、そのまま退勤時間まで一緒に川を眺め続けた。
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