第41話 しののめの

文字数 1,002文字

 陽の高くなった昼過ぎ、正午頃から気温は上がり木陰のベンチで三井秀典はマスクを外し暑さにうなだれていた。のそのそと腰と足をマッサージしながら、側の陽の射す中にうっかり停めたかご付き自転車を見て気付いた。
「絶対、サドル、熱い……」
 家を飛び出したのは今朝の早い時間だった。引きこもっていた秀典は、いつものように昼夜逆転した生活を送っていたが、今日に限っては朝日が昇り始めても寝付けず、何気なしに部屋の窓を開けた。夏の朝の爽快な空気、目覚め動き始めた街、全く何か分からない圧倒的な不思議な力が秀典を刺激した。
「よし、行ってみるか」
 朝からご飯をしっかり食べている息子に寝起きの母親は驚いた。いつも無気力に見えた秀典にみなぎる活力、とにかく、それだけで母親は満足し、それ以上踏み込むことはなかった。
 折り畳みマットを自転車の荷台にくくり付け、リュックサックには数枚の着替えとペットボトルの水とジップロックに入れた塩、そして玄関にあった使い捨てマスクを詰め込むとハンドルのかごへ投げ込んだ。
「ちょっと、旅行、行ってくる」
 母親の返事も聞かぬまま秀典は自転車を漕ぎ始めた。
 午前は順調に距離を稼いだ。北へ行けば涼しいだろうと安易に方向は決めた。幹線道路沿いをのんびり走りながら、急ぐ理由もなければ、目的地もなかった。
 昼間の街は人々の営みに溢れ、いつもは寝ている時間だった秀典には夢見心地な世界だった。秀典は確かに自転車を漕いでいる、それよりも速い自動車が通り過ぎる、秀典が生きる速度は、現代のあまりに速い時代の流れの中では、少し遅いのかもしれなかった。
 まだまだ先の見えない旅路の途中、休むことも秀典には必要だった。自室の狭いちっぽけな世界も悪くはなかったが、古くて重いかご付き自転車に乗って、今は知らない時間を旅する。少し他の人と合わなかっただけ、少し他の人と好みが違っていただけ、お尻に伝わるサドルの熱さも秀典には久しくなかった実感だった。
 ぐらつくペダル、空気の抜けたタイヤ、甘くなったブレーキ、錆びたチェーン、見栄えも性能も酷い自転車、秀典の自転車。これで良かった、秀典は楽しかった、秀典は面白くて笑いが込み上げた、暑かった、汗も涙も溢れた。
 帰路のことなど、どうでもよかった。ただ自転車の動きのように、今の秀典は前にだけ進みたかった。もし後悔があるとしても、それはきっとずっと遅れてやって来るのだから。
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