第30話 さくら色の

文字数 1,078文字

 まだ明けきらぬ晩春の庭に竹ぼうきの音は冷たい空気を掃き寄せる。ふと、ほうきを持つ手の甲に水気を感じた中澤真智子は手を止めると空を見上げた。微かではあるが、雨とも雪ともつかないみぞれが降っている。紅潮した真智子の白い耳の奥に甲高い音のような冷えた痛みが染み入った。
 一晩、寒気に晒された茶室の中は貯め込んだ冷気によって外よりも凍てついていた。白い足袋の底から伝わる畳の冷酷な感情、氷のように張りつめた障子の危うさ、真智子は二畳の虚無の世界に座し、暗い床を見つめた。煤けたような土壁の色はどこまでも深く落ちてゆく、季節や想いを突然見失ったかのように、真智子は軸も掛けず、床には何も置くことができなかった。
 庭にも茶室にも、これまでの真智子は森羅万象を感じることができたが、今では人の造りだしたそれらの全てに無力を感じていた。書に記された和歌や漢字がどれだけ自然を讃えようが、花器にどれだけ季節や意味を込めようが、大勢の人の明日が突然奪われなくなってゆくことに。
 昼頃に再び庭へ下りた真智子は昨年植えたばかりのまだ小さな桜の木を前に立ち止まった。僅かに咲いた花もすでに散り、貧相な枝に若葉の兆しが見えていた。以前の真智子であれば、その生命の力強さに人の生き方を重ねていたが、今はただ、桜だけが勝手に成長し、人は散った花弁のように置き去りされてゆく、そんな光景だけが浮かんでくる。
 真智子は剪定ばさみを持って桜の前まで再びやって来ると、木の低いところに伸び出た古い枝を一本切り落とした。かろうじて生えた若葉の黄緑色は、どこまでも遠くにあるようで、真智子には決して届きそうにもないのに、それは真智子の白い手の中で切られたことも分からずに脈打っているかのようだった。
 茶室にあった朝の緊張は解かれ、続いて昼のまどろみが全てをうやむやにしていた。やはりそれにも弾かれたように感じた真智子は敷居を前に少し入るのをためらった。しかし、真智子は急に思い立ち、指で摘まみ持っていた小枝を狭い茶室の中へと放り投げた。
 広い世界の中に横たわる小枝は、死んでいるとも生きているとも見て取れる。そんな無常を前にして真智子はようやく茶室の中へと足を踏み入れた。畳の上に転がる小枝を拾い上げた真智子は、それを床へと移し、そっと置いてその場を離れた。
 久しぶりに取り出した茶道具を前に、真智子は炉の松風を聴いていた。他にこれを聴く者は誰もいない。真智子は立ち上がり、床の小枝を大事そうに拾い上げると、炉の中へと小枝をくべた。煮えたぎる枝の水気、真智子は燃えてゆく桜の香りをじっと聴いていた。
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