第22話 梅の花

文字数 1,143文字

 また公演の中止が決まりましたと電話が入った。スケジュール帳の予定は、これで全て白紙である。ソプラノ歌手の岩佐真美子は安堵したものの、この時、誰にも打ち明けられない重大な問題を抱えていた。
 日に日に世界が一変してゆく中で、まず真美子の身体に異変が出始めたのは春だった。これまで体調管理には人一倍気を付けてきたこともあり、喉を傷めることもなく順調にキャリアを重ねてきた真美子だったが、歌声に張りがないことに気付いた。まともな練習もできない状況が影響しているのかと始めはそれほど気にも留めなかった。しかし、夏になると、声の張りも伸びもなくなり、秋には、ついに日常の声すらまったく出なくなってしまったのである。
 独身の真美子は、ひとまず大事になることだけは避けようと、人に会うことも、電話も避けるようになった。当然、医者へ掛かることも考えたが、極度の心配性だった真美子は病院へ行きウイルスに感染するリスクに怯え、そして、何よりも人の噂になることを恐れた。芸術という特殊な世界で生きてきた真美子にとって、数字のような分かりやすい結果がない以上、評価や他人の眼が自分の全てだったのである。声の出なくなった声楽家を世間はどんな眼で見るのだろうか。同情や憐れみの言葉すら耐えられそうにもなく、ましてや嘲笑など想像するだけで真美子は震え上がった。
 すぐに良くなると自分へ言い聞かせ、身体や喉に良いと言われる食事や薬を服用し、睡眠を十分に取るよう心掛け、インターネット上の声の病気に関する情報を真美子は読み漁った。しかし、そこに書かれていたことを読めば読むほど、真美子はプレッシャーを感じていることに気付けなかった。
 病気に関する記事の一つにストレスが起因となる症状を認めた真美子は、直近の公演で歌う予定だったシューベルトの「月に寄せて Op.57-3 D.193」のレコードを聴くことにした。音楽は真美子の人生であり、これまで幾度も音楽に救われてきた。何よりもシューベルトの歌曲を真美子は好んでいた。
 レコードに針を落とした真美子は奇妙な錯覚を覚えた。溝が無くなるほど聴いたはずのレコードの音が違うのである。曲が始まるピアノの第一音から異なるのは、声楽家の真美子には明らかだった。レコードや針を確認したが、埃もなく、盤も神経質な真美子の管理により指紋一つ付いていなかった。
 真美子は自身が歌うシューベルトの「春に Op.101-1 D.882」のCDを掛けた。真美子の代表曲と知られた音源である。
 曲の終わりまで聴いた真美子は愕然とした。歌詞の最後、夏が来るまで歌い続けよう、と歌い上げるはずの自分の声がそこにはなかったのである。
 そして、初雪がちらついた翌日、悲劇としてソプラノ歌手の死は報じられた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み