第91話 いたづらに

文字数 1,036文字

 暦の春は数えられたとしても、数える前に今年の春もまた、すぐさま夏へと変貌を遂げた。待ってはくれない春を下地朝美は、その過ぎ去り変わった季節の下で思い描いていた。
「長い春ほど矛盾した言葉もなく……」
 初夏に朝美が考えたことだった。春に死は近しく、季節特有の煩いから解放された生は死に最も脅かされていた。春の詩や詠に死に似た匂いが漂うのも、そのせいだと朝美は思った。春そのものが含む奇妙な特性だと。
 夏の盛りの訪れは、春の欠片を残さずに焼き尽くすのだろう。初夏の朧げな春の形見に朝美が認めたのは死の片鱗であるが、夏に死がないわけではなかった。夏の死にはどこか英雄的な燦燦とした光輝があり、夏には彫刻的な実存が、春には形の伴わない抽象的な不確定さが備わっていた。また、夏は長く、全ての効果を準備し、発動させるまでに十分な時間が備わっていた。
 長さを持ち出すのであれば、冬も考えなければと朝美は次に考えた。一見、死に近いように思われるこの季節を、朝美は慎重に選り分けていた。イメージに惑わされ、すぐに死と結び付るのは、冬の長さと、その後に控える春のせいだと。
 冬をよく見てみれば分かる。冬は姿を変えずに過ぎる。冬は時間に閉じ込められまま、何もせずに過ぎ去るだけなのだと。音さえ凍り、止まったように見える命の小さな活動も、向かう先は春であり、冬は通過するだけだった。決して冬は死を与えず、その時が訪れるのは春だと朝美は思った。
 残されたのは秋である。春によく似た季節のようで、表と裏の関係は逆さまに動いていた。秋こそ死に向かうようで、最も死からは離れていると朝美は考えた。春から一番遠いのは明白だが、何より夏に死すべきものは全て死んでしまい、冬は死を迎える前に凍りつく。秋もまた短く、死は似合わない。
「人と春は似ている……」
 朝美の結論だった。今、季節は冬の終わりへと近づいている。
 冬の原は枯れた草が横たわり土を覗かせていた。春になれば一面の緑に包まれ、虫が飛び交い、暖かさに包まれているのだろう。足下の菅草を引き抜き、土を払い落した根は白かった。細くすっきりとした根は生きていた。
 暮れるまで白かった根も、夕陽に赤く染まっていった。きっと全てが赤く染まり、こうして一日が過ぎ、やがて冬は終わり、また春が訪れる。
「何度目の春でしょう……」 
 春は語るに時短く、気付けば春を待つ身は偽りに乱され晒される。もののあわれの刹那、春は芽吹く。
 新しく迎える春もまた、指折れば初夏である。
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