第77話 かきやりし

文字数 1,045文字

 膝の上に眠る漆黒の長い髪は触れると冷たい。爪を立て、髪の中へと指を差し入れると、なおのこと水のようにひんやりとしていた。水脈に沿うように指を流すと、髪は指の合間に絹のしなやかさに似た質感を残した。髪の下から聴こえる微かな寝息以外に音は無い夜に、黒々とした底の見えない髪はよりいっそう深く感じる。
 顔を上げた下山敬は、眼を閉じて指先の感覚だけに任せ髪を梳いた。
 いつかこの水を思い出す日が訪れるのだろうか。静かに沈んでゆく記憶の底の冷たい水、何もないこの世の果てのことを。落ちてゆく、身体も気持ちもゆっくりと漂う、敬を包み込む長い髪と一緒に。
 夜は水と混じり始め、敬は流されるままに漂う。
 このまま今の止まった時に浸りながら、どこまでも行けるなら、敬は身を任し続けただろう。現実が遠くなればなるほど、この眼で見えなくなればなるほど、どれだけ良いだろうと敬は考えた。どれほどの代償が必要であろうと、差し出せるものなら身を捧げ、ここでゆっくりと沈んでゆくことを敬は選ぶだろう。
 生きることの目的の先、これ以上のことがあるのだろうかと敬は髪に抱かれながら思った。終わりの時や場所ぐらい自ら決めることができるのであれば、それはここなのではないのだろうかと。苦しみや悲しみばかりが溢れ、好まざるものばかりにまみれたまま終わるのは耐え難い。
 しかし、この幻想の全てはいずれ消えてなくなることも敬は知っていた。忘れてしまうほどに崩れ去る時が訪れることを。むしろ引き離せないのは現実の方で、いくら遠くへ行けても、磁力のような力が敬を再び引き寄せる。身体はゆっくりと巻き戻されるように浮かび上がり、名残惜しく漂う長い髪は、黒よりも深い闇の中へと沈んでゆく。その姿は別れを嘆くように揺れている。
 寒さに身震いをし、眼を開けた敬は足の痺れを感じた。普段は苦痛でしかないこの感覚さえも、この時を得るための代償だと思えた。
 寒い夜も、冷えた長い髪も、足の痺れも、小さな寝息さえも、やがて忘れてしまうのだろうかと敬は考えた。どれも残らずに、生きるための苦痛だけが、生きるために残され、延々と見知らぬ人々の後ろに続き、人が零れ落とした苦痛を拾い上げ、抱えきれなくなり落とした苦痛を背後にいる誰かが拾い上げるのだろうかと。
 起こさないようにそっと頭を持ち上げると敬は足を引き抜いた。痺れたままの足は、もう自分のものではない気がした。
 やがて全てを失った時、永遠の記憶の水底へ耽溺することができればと、敬は冷たい髪を撫でた。
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