第45話 三代までに

文字数 1,032文字

 夜の静かな住宅街を一台の黒塗りの車が走り抜ける。立派な塀の横に差し掛かると車は速度を落とし、これまた立派な門の前で停まった。運転席から降りたスーツ姿の男がいそいそと後部座席のドアを開けると、恰幅のよいスーツの男が黙って降り、そのまま門の脇の扉をくぐると男は奥へと消えていった。
 月光に照らされた塀の中の庭は、表の立派な塀や門とは対照的に、かつての優雅さを失い荒れ放題で、都会には珍しい古い平屋の日本家屋も、よく見れば手入れが必要な箇所がたくさんあった。男は建付けの悪い戸を力任せに開けると、薄暗い玄関で靴を脱ぎ捨て、暗い廊下を奥へと歩いて行く。冷え切った自室に入ると服を脱ぎ散らかし、ベッドに入り込んだ男は大きないびきを掻いてすぐさま寝入ってしまった。
「先生、大変です。ニュースに取り上げられる情報が入りました。おそらくお宅にも報道陣が……」
 地方議員の岡山正憲は、ベッドの中で寝ぼけながらに聞いた秘書の電話の声を始めは夢かと思った。しかし、昨夜の酒でベットリと粘つく口の中の気持ち悪さに起き上がると、下着姿のみすぼらしい格好のままで台所へと行った。
 台所にいた妻は正憲を見るなり、黙って別の部屋へと引き下がった。表向きこそ取り繕う夫婦も家庭での会話はまったくなく、互いの利害関係だけが二人を繋ぎ止めていた。
 コップの水を一気に飲み干した正憲は憤慨していた。絶対に情報が漏れないように段取りをしたが嗅ぎつけられた昨夜の忘年会。人と酒を呑みかわし、語らうことが政治だと正憲は本気で信じていたのである。祖父や父の背中しか知らなかった正憲は、あまりに時世や世間を知らなかった。
「ウイルスが怖くて参加したくなかったんですが、断るのも失礼にあたり、今は反省しております」
「議員として、あるまじき行為ですよ。次はないですね」
 テレビに映し出される議員や有権者の顔、正憲主催の忘年会は日本中に不名誉を晒すことになった。感染のことよりも人の眼を正憲は恐れた。家の奥の間で誰とも会わず引きこもり、薄暗い部屋に光るテレビが正憲の顔を照らしている。
「もう、終わりじゃないですか三世議員なんて、かばう人なんて誰もいないんじゃない」
 政治家の家に生まれ、何不自由なく育ってきた正憲の自信は簡単に崩れ落ちた。ただ恵まれた環境が正憲にあっただけで、それに群がる人々はあれど、正憲の才能を認める人など誰一人としていなかったのである。忘年会をリークしたのが、まさか秘書だと正憲は知る由もなかった。
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