第85話 桃の花

文字数 936文字

 朱の毛氈の敷かれた長い縁側に灯りはないが、ガラスを透かして月の光が射し込んでいる。豊島充は懐中電灯を片手に、庭園に面した大きなガラス戸の戸締りを確かめて歩いていた。板張りの床の軋む音が足下から聴こえる他に音は無く、見事な造りの庭園は日本画のような繊細さをガラス戸に映していた。
 巡回を終えた充は事務所へと戻り、帰り支度を始めようとしていると、勝手口の扉が開きオーナーが一人で入ってきた。
「豊島さん、仕事は終わりましたか」
「ええ、たった今。それにしてもオーナー、こんな夜更けにいらっしゃるなんて、何かございましたか」
 まだ肌寒い桃の節句、オーナーは分厚いコートを着たまま来客用のソファーに深々と腰掛けた。
 先代からの事業を引き継いだオーナーと、さほど年の離れていない充は、長年に渡り都会の真ん中にあるこの料亭を守り、切り盛りしてきた。今日まで二人が築き上げてきたのは事業の成果だけではなく、互いへの信頼による阿吽の呼吸のようなものもあった。そのような仲のオーナーがこんな時間に一人突然現れたことに充はすぐに察することがあった。
「オーナー、庭に出ませんか」
 すぐに自分も行くのでと言い残し、オーナーを先に庭へと向かわせると、充は建物の奥へと消えていった。
 庭で月を見上げていたオーナーが音に気付き振り返ると、縁側に椅子が二脚と小さなテーブルが用意されていた。オーナーも察したように、充からそれらを受け取ると庭へと運び、それぞれを据えた。充は日本酒の小瓶と盃を盆に乗せ、テーブルの上へと置いた。
「今宵の月は、あの日を思い出すね」
 オーナーのつぶやきとも取れる言葉に黙ったまま充は日本酒を開けると、黒漆の盃をオーナーの手に握らせ酒を注いだ。そして自らの盃にも酒を注ぐと、二人は黙ったまま酒を飲み干した。
「感の良い豊島さんのことだから、もう分かってると思うんだ…… こんな状況だから、ここらへんかなと思ってる」
 黙ったまま充はオーナーの盃へと酒を注いだ。二人でこの事業を始めたその日にも、こうして二人は同じように庭へテーブルと椅子を運び出し盃を交わしたのだった。
 月を冠した料亭の名に相応しい夜だった。充は最後の酒を自分の盃へ注ぐと、酒の表面に浮かんだ逆月が零れ落ちた涙に揺れた。
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