第62話 山のはの

文字数 1,059文字

 幼き頃からの家の習わしで、肥後麻奈美は隔月で訪れる庚申の夜を迎えようとしていた。陽が暮れる前に風呂に浸かり身体を浄めると、まだ乾き切らぬ髪をさらしながらベランダに出た。春の中、手摺には花粉とも黄砂とも見分けのつかない塵が溜まっている。隣接するマンションとのわずかな隙間から見える空には、射し込む淡い夕焼けの色と、まだ薄白色のままの月がある。決して綺麗とはいえない都会の空気ですら、麻奈美にとっては久しぶりに吸い込んだマスク越しではない新鮮な空気に感じた。
 ベランダから薄暗い自分の部屋を眺めた麻奈美は、誰か知らない人の生活を覗き見しているような気がした。この部屋の生活に合わせて買い揃えた家具や小物は、まだ部屋や麻奈美に馴染むには経つ日が浅かった。開け放ったガラス戸は十分なほど部屋の空気を入れ替え、麻奈美は部屋へと足を踏み入れる。ひんやりとした空気が部屋を満たしていた。
 裸電球一つだけを灯し、麻奈美は食事の準備を始めた。昼から雪平鍋で煮込んでいたタケノコとわかめを温め直し、そら豆を茹でパスタを作った。小さなテーブルに皿を並べ終えると、食前に普段は飲まない日本酒を少し流しこんだ。春らしさを知ること。味覚は麻奈美の下へようやく春を運んできた。
 食後の片付けを済ますと麻奈美は本を読み始めた。昼間に読んでいた続きを読み始めたが、全く活字が頭に入ってこないばかりか、余計なことばかりが浮かんでは消え読書の邪魔をした。本と身体が一致しない、こんな時、麻奈美は意識のある方へ素直に従うように決めていた。
 クローゼットの中から段ボールを取り出すと、しばらく読んでいない本をいくつか取り出した。詩集、和歌集、短編集、麻奈美は、春について書かれている箇所を探しながらページを捲った。
 過去に過ぎ去りし春と訪れたばかりの今年の春を見比べながら、麻奈美は文字を追い続けた。
 異国の春には知らない文化の香りや言葉が、日本の太古の春には梅や桜の小さな花弁が舞い散り、少し前の春には懐旧が滲んでいる。どの言葉にも独特な香りが立ち込めていた。
 自身の春に香るのは、どのような言葉なのだろうか、と麻奈美はふと考え込んだ。昔のことを思い返したり、春のイメージを頭に描いてみたが、どれもぴったりと合うような感じはしない。すると、数時間前のことが浮かんできた。
 春の月。夕刻に吸い込んだ、少し冷えた大気に交じるあらゆる香りや匂い、あれこそは月が醸し出す春、麻奈美の今年の春だったのだろうか。麻奈美はぶら下がる電球を見上げると、月のようだと思った。
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