第3話 契りおけ

文字数 945文字

 カーテンを開けた森口淳一は、椅子を引き寄せて陽だまりの中に腰を下ろした。部屋に射し込む光が寝起きの淳一を暖かく包み、春の訪れは彼の抱いた淡い記憶を鮮明に蘇らせた。
「桜が散って…… 白い首筋にひらひらと舞い落ちる……」
 淳一は人差し指で宙をなぞりながら、そこに映る彼女の首筋に生えた和毛の質感を思い出すと途端に恥ずかしくなった。
 桜の花弁はよじれ細い屑となって服の襟へと落ち、何事もなくそのまま去年の春が終わった。それ以来、淳一は彼女に会いたくても会えなかった。
 淳一の通う大学は再開の兆しもなく、飲食店のアルバイトからは早々に解雇を通達された。日頃から付き合いの薄い淳一はとくに予定もなく、独り家から出ない日々を過ごしていたが、身支度を整えると久々に外出することにした。
 先程のまでの柔らかな朝日は雲に遮られ、昨日までと同じ晩冬のような色彩が街を染める。人気もなくひっそりとした住宅街を抜けた淳一は、大きな公園までやって来た。ちらほらとマスクをして運動や散歩をする人は見えるが、例年のような早春の賑わいはまるでなかった。
 淳一は、まっすぐ一本の桜の木の下へと来たが、芽吹く前の小さな蕾程度しか見つからず、まだ花が咲くには早かった。ここへ来ればあの記憶の意味が分かるような気がする、と淳一は考えたが、手掛かりになるようなものはまったく得られなかった。
 肌寒い公園のベンチに座りながらしばらく淳一は物思いに耽っていた。彼女のことを考えれば考えるほど、自身の気持ちを認めることのできない若さと恥じらい、そして淳一の素朴な純粋さが、一年もの間、知らず知らずのうちにあの記憶を押し込んでいたのだった。そのことに気付くには、淳一の経験はあまりに乏しかった。
 空高く吹く風が雲を追いやると、再び春の陽光が淳一を包み込んだ。指先に暖かさを感じた淳一に、またあの和毛の記憶が蘇った。
「あの時の僕に、少しでも覚悟があったなら……」
 今さら嘆いても遅いことを知りつつ、例えこの春、彼女に会えたとしても未だ決心のつかぬ自分の姿が浮かんでくると、淳一は堪えきれず涙を流した。
「桜の季節が来るたびに、僕は…… この僕は苦しまなければならないのか……」
 生まれたばかりの蕾のように、淳一の心は硬く閉ざされたままだった。
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