第58話 山吹の

文字数 1,006文字

 都市には大勢の人々が日夜行き交う。電車の中、繁華街、食料品店、薬局、どこを切り取っても人の暮らしがあり、顔のマスクを除けば、以前と見た目には変わらないようにも映る。
 永沼理紗もまた、その光景の中の一員だった。満員電車で繁華街へと行き、仕事が終われば、食料品店や薬局で買い物をして帰宅する。休日は外出せずに独り家で過ごしたが、やはり人恋しさは募る。
 街中で人の波を理紗が眺める時、以前であれば顔の個性を楽しめた。この都市には、全国からたくさんの人々が訪れ生活し、道行く人々の顔の特徴を眺めては、将来結婚する人の顔を想像したりもした。しかし今は、マスクで見えない顔ばかりが溢れ、多少の違いはあるものの無機質なマスク姿ばかりがただ流れてゆく。
「停滞する都市と時間…… 街中にあった色んな顔、マスクが堰き止める表情……」
 電話やSNSで連絡を取ることは増えても、人に会うことも、会っても話し込むことも減ってしまった。話題の中にも世相を反映したような暗い話題が入り込むことが増えた。
「笑うことは極端に減って、考えること、これまで悩まなかったことばかりに追われて、窮屈なのは口元だけじゃなく、思考もどこか窮屈なんだ……」
 マスクをしていない人を見かけたからといって、人に迷惑や不快感を与えたくない理紗は羨ましく思うことはなかった。むしろマスクをしていないその顔には、人の視線と憐れみと反感がべっとりと付着しているのだと感じた。
 外へ出るたびに理紗は疲れるようになり、歩けばすぐに呼吸は荒くなっていった。マスクの中で湿る肌、耳の付け根の痛み、不織布のあの匂いに、たびたび起こる頭痛。
「感情は、ただただ暗く、俯きながら見えるのは、自分のつま先と道端に転がるマスク……」
 主を失った使い捨てマスクの白さが、アスファルトの上でひと際目立つ。風に吹かれて転がり続けても、もう二度と顔に戻ることはない。
「あの道端に転がるマスクを付けていた人の表情が戻ることもなく、すぐにまた真新しいマスクが顔を覆うだけ……」
 一時は、あれほど枯渇したマスクも今や街にたくさん並んでいる。色とりどりの多様な素材のマスク。理紗は店先で、その一つを手に取り考え込んだ。
「これは人の顔ではない…… 決して人の顔にはなり得ない……」
 理紗は側にあった鏡に映る自分のマスク姿を見て悲観した。そこには、虚ろな眼のすでに感情を失った顔がこちらを見つめていたのだった。
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