第84話 はまゆふや

文字数 984文字

 海を背にし、波打ち際に立った岡田洋介は、砂浜に沈んだ踵に触れる波の戯れを感じながら遠くを見ていた。夏の日光は、波の音を除き全てを焼き尽くしてしまった。
「静かだ」
 寝汗を掻いて目覚めた洋介は、開けっ放しだった窓辺に立ち街を眺めた。すでに街は動き出し、人々や電車が忙しなく行き交う光景は暑さを助長した。シャワーを浴びようにも気怠さが勝り、その気は起こらない。冷蔵庫を開けても冷えた飲み物は何もなく、仕方なく飲んだ水道水は生温い。一口だけ飲んだコップをテーブルに置くと、椅子に腰掛けた。
 春からほとんど外出せず、窮屈な生活と、この暑さで身体は重くなる一方、頭や意識だけは常に遠い所にあるような気がしていた。頬杖をついてぼんやりしていた洋介は、不安定なテーブルの上のコップを何気なしに見つめていた。熱を帯びた荒い呼吸をするたびに腕を伝った振動がコップの水を揺らした。
「波みたいだな」
 立ち上がった洋介は窓辺に向かい、眼下にあるパーキングのカーシェアの車があるのを確かめると家を出た。
 冷房の効いた車内から見た外の世界は暑さとマスクの二重苦で、見ているだけで眩暈がしそうだと洋介は思った。現実を避けるかのように洋介は高速道路へと入り、遠い所へと車を走らせた。
 いくつかの県境を越え、高速道路を出た洋介は当てもなく海岸に沿った道に車を走らせた。今夏だけのことなのかは分からななかったが、シャッターを下ろした店舗がいくつもあった。暑さのせいか、人も見かけることはなかった。
 海水浴場の看板を眼にした洋介は、ハンドルを切りそちらへと向かってみたが、辺りに営業している気配はなく、駐車場には虎模様のロープが張られ、閑散どころか完全に閉ざされたような空間が広がっている。
 車を道の隅に止めた洋介は、車から降りると水平線の方から波の音が聴こえた。
真っ青な空には綿花のような真っ白な雲が貼り付き、その下を優雅にトンビが旋回している。浜へと迫り出すように突き出た小山の木々は溢れんばかりの葉を付け、岩場と砂浜の合間にはハマユウの糸のような白い花弁が咲き乱れていた。洋介は、ようやく知った夏へとやって来た。
 服を脱ぎ捨て下着一枚の姿で波打ち際に立った洋介は、両手を眼一杯天にかざした。振り向き、後退りするように海へと入ると、そのまま倒れ込むよう空を仰いだ。青い空は、一瞬にして白い泡に包まれた。
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