第98話 風過ぐる

文字数 1,044文字

 無くしてしまってから河本章子は、自ずと本質と向き合うことになった。
生活のすべてを携帯電話に依存していた章子は、影響がどれほどのものかも考えたことはなかった。そもそも考えること自体がなく、検索されて導き出された最適解は誰かの考えで章子のものではなかった。突き付けられた現状すら為す術はなく、湧いてくる感情すらも章子の現実には無かった。
 連絡しようにも誰のことも知らず、番号もアドレスもIDはおろか、本当の名前が分からない。それは、液晶に映る自分の顔が分からないのも同じで、画像フォルダの中の加工された写真や、SNSに使用していたアイコン画像しか章子として認識されていない。誰がIDやニックネーム以外の河本章子という漢字で表された本当の名前を知り得て、誰と章子は会話や、やり取りをしていたのだろうか。打ち明けた全ては数え切れないほどの他人の言葉とまみれたまま、誰が章子のために時間を割いたのだろうか。
 指紋や顔立ちを委ね、金も全て経由し、居場所も連絡先も携帯電話だった。手の中で握られた黒い画面の中から見つめている章子は、そこにいる誰を見ていたのだろうか。
 章子は携帯電話を失ったように見えるが、もうすでに章子という名前の大部分は移行し、章子の特徴や好みを備え、個人情報を搭載した掌より少し大きい電子機器の方が章子だった。「残された人」というこれまで意思決定をしていたと思い込んでいた者は、形成する一部分として労働や移動を強いられていただけだった。
 章子やアキ、AKIはどこかへ行ってしまい、残された人はネットワークから断絶されたところにいた。しかし、それは残された人が本当は望んでいたことだったのかもしれず、次第にかけ離れて行く章子を見つめながら、それは他の誰かでよかった。
 訪れたショップで全ての機能を停止し解約する手続きを行った残された人は、本当の章子を取り戻した。バックアップとして眠っていた過去の全てを消すことで、もう一度、章子は新しく始めようと思った。その日、章子は新規の契約はしなかった。
 帰り道、たくさんの携帯電話とすれ違う。何も持たない章子は、様々なことを考えた。見落としていた街の些細なことや、友達へ本当に伝えたかったこと、そして、もう少しだけこの生活を送り、自分が不在だった頃のことを思い出そうと。
 行ってしまった過去のデータは何も無い。誰かに連絡しようとしても分からない。そんなことを独り考える章子は辺りを見回した。章子の眼は、世を見ている。心を掻き乱す、儚い世を。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み