第65話 あきはいぬ

文字数 957文字

「逢える、この後の貴方に……」
 便箋の上の万年筆は止まり、ペン先から注がれる深い青いインクは湖のように。湖畔の文字は次々とのみ込まれてゆく。しばらくそのままに、見惚れるまま大沼友美はインクを流し続ける。ようやく上げた手の下、青い湖は深く、数枚先の重なり合う紙にまで浸透している。
「散りゆく木々の葉、貴方の……」
 一葉、二葉と、面影を赤や黄の色が覆い隠し、掘り起こせないほどの記憶の底へ。ただただ降り積もる色を止めることもできないまま、湖面に静かに着水し、沈んでゆくだけ。ゆっくりと、ゆっくりと、輪郭さえも、やがて消えて見えなくなる。
「何も残さない枝の向こうで貴方は……」
 透き通るような空の色は水の色と混じり合うまま、逆さまに映る青い湖の空と青い空の湖との狭間に混濁した様々な色と色の持つべき性質を、指先になぞり写し取り、一つ、一つ、蒼の上に蒼で描く。
「どこまでも離れゆく蒼い天を追い掛ける貴方を……」
 湖から、空から、青いインクが覚えている形になる前の心を線で引くように繋ぎ合わせ、こちらの方へ手繰り寄せる。四方に散らばる全ての線は、点と点を結びながら、それぞれの先へと線は延びてゆく。
「伸び上がる夕陽は貴方と……」
 乾いたインクは思うままに、新たな色に移り気な橙を選ぶ。青は、より青くなることで留まろうとし、それでも射し込む色との境に遮られ、変わるべき色を求められる。僅かに与えられる猶予も虚しく、従うままに。
「星々の瞬く光を背に貴方が……」
 インクは擦れ、筆圧の跡が紙の上に残す文字に色はない。これ以上は、言葉にならないと諦めた友美は万年筆を置くことで遠くの空を眺める。夕陽の届かない空の端に星は一つ。もう一つ。その一つ一つは同じ距離を保ち続け、交わることもなく、夜空を駆け続ける。どちらかが消えてなくなるまで。
 宛先も知らぬ手紙は、永遠に友美の手の中にあろうか。夕陽は陰り、濃紺の文字が夜の闇へと落ちてゆく、紙へ滲んでゆく……
「もし、貴方がこの世からいなくなっても、私は秋の夕陽に染まるまま、そのままに待つ…… この折り畳んだ紙の中に、そのままに」
 微かな陽の中に投げ込まれた便箋は燃え上がる。もう書き直すこともできない思い出は炭化し、やがて黒く焼け焦げた紙の中で永遠の誓いを、逢えることを望みながら待つ。
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