第5話 さくら花

文字数 943文字

 桜に浮かれるのも憚られる、そんな人々の声で各地の花見の名所は規制線が張られた。この都市で働き始めて五年になる小川洋子は、得意先や同僚との間で桜の話題が上がると、いつも故郷の山を思い出した。
 京の実家の二階にあった洋子の部屋の窓は東に向いて開き、滋賀との県境の山は洋子が小さな掌を横にかざすとすっぽりと収まった。いつも窓から眺めた山の向こう側の世界に洋子は憧れた。
「絶対あっちに行って、あたしは頑張るんや」
 日に日に上る感染者数と不安が蔓延する中で、洋子の会社にも徐々に影響が出始めた。進行中の業務はいったん白紙となり、忙しさで後回しにしていた雑務も片付いてしまうといよいよ出勤日が減らされ、ついに自宅待機となった。就職してから常に追われ続けた納期がなくなると、ふと洋子は昔のことを考えることが多くなった。
「あの白いのは、なんやろ」
 窓から臨むなだらかな山の中腹に、それはポツンとあった。洋子の部屋の窓からではあまりに小さく、それが何なのか分からなかった。大学の課題に一息つきたかった洋子は暖かい気候に誘われたように、それが何なのか確かめに行くことにした。
「はい、今のところ問題は何もないです。あっ、はい、体調も変わらず……」
 上司からの電話を切ると、久しぶりに自分の声を聞いたと思った。独り都会の真ん中で暮らす洋子は突然母の声が恋しくなり、実家で独り暮らす母に電話をした。
「洋子、どこ行くん? ちゃんと厚着して行かへんと風邪引かはるで」
 早く行かないとそれが消えてしまうように思った洋子は、急いで家を出ると自転車にまたがり東に向かって漕いだ。大文字を目印にしながら、ちょうど山のふもとまでやって来ると、迫り来る木々に覆い隠され、それは見上げても見つけることはできなかった。振り返りつつ戻りながら、あの白いものを探していると、ちょうど視界の開けたところにそれはあった。
「桜やったんか……」
 久しぶりの母との電話は話題が尽きることもなく、互いの近況やウイルスのこと、気が付けば陽は暮れようとしていた。
「あんた、あん時、風邪引いて大変やったんやで。あんま身体丈夫やないんやし、ほんま無理だけはしんといてや」
 眼を閉じれば、いつもあの頃の気持ちに戻る。記憶の中で霞む東山に咲いた山桜の面影に。
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