第56話 秋ならで

文字数 1,102文字

 床の中で花の図鑑か星の図鑑を眺めてから眠りに落ちると、どんな夢を見るのでしょう。四季折々の花々に囲まれた夢でしょうか、瞬く星の遠い宇宙の夢でしょうか。花の冠を乗せた小さな頭、もしくは花言葉の意味を聞かせてくれる声、それとも星座をなぞる指先のマニキュアの色、はたまた星を見上げる横顔…… そこにいつもいるのは誰でしょうか……
 吊革へ辿り着けなかった栗山淳一は、満員電車の中途半端な位置で揺られていた。手を伸ばそうにもすし詰めの車内で身体を動かせず、眼の前にある中年男の頭の油染みた匂いが、まだ暑さの残る季節の冷房によって淳一のずり落ちかけたマスク顔へとまともに吹き付けた。しかし、淳一もまた同じような年格好であり、後ろの見えない誰かがそう思うのだろうと感じた。
「匂いがあれば、より確かなのに……」
 毎朝、仕事へ向かう電車の中で淳一は、その日見た夢を思い返すのだった。そして夢は、眠る前に見た図鑑の影響を受けることが多かった。花と星である。
 この習慣がいつから始まったか、もはや淳一本人すら覚えていなかった。少なくとも十年以上続いているのは確かであったが、それすら今やどうでもよかった。とにかく夢の内容が淳一の興味を引き、そのことばかりを考えてしまう。花の夢であろうと、星の夢であろうと、そこに誰か分からない存在がいるのである。
 いくつかの夢の条件やきっかけを淳一は見つけている。付き合う相手がいなくなってから夢を見るようになったこと、決まった図鑑でないと夢を見ないこと、過去に同じような夢を見た記憶がないこと。だからといって、それが何かの足しになるようなことは今のところなく、潰えた夢の泡の名残を感じながら電車に揺られている。
 淳一は気付きもしませんが、傍から見ればそれは恋だったでしょう。誰にも話したことのない夢の恋は所詮幻でしょうが、現実の恋のみが果たして正しいのでしょうか。多くの人は現実こそが生きる世界であると信じ、夢は「夢」という囲いの中へ追いやってしまい、それ以上、深く考えることをしません。しかし、恋は人の思いでしかなく、現実のどこを探しても恋を見ることなどないのです。では、恋はどこにあるのでしょうか……
 会社のある駅に着くと大勢の人に押し出されるように、淳一もホームへと降り立つ。知った顔なんかと挨拶を交わす内に次第に現実の色が淡い夢の色を覆い尽くし、やがて淳一は夢のことを考えなくなるのであった。
 毎夜、布団に潜り込む前の尊い一時。まだ恋だと知らぬ思いを胸に抱きながら眠る五十路を過ぎた男。誰にも知れず、そっと消した灯りの先に伺い見える女。
 永遠の恋こそ、夢の中にしかないのでしょう。
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