第8話 梢より

文字数 1,048文字

 新緑に包まれた校舎の陰に声はなく、眼に飛び込んだ白い蝶の可憐な羽ばたきさえも平沼瑞希はうるさく感じた。木陰のベンチに腰を下ろすと、瑞希は葉の生い茂る天を仰いだ。
「ということですので、ついては卒業式の式典は中止になります。在校生の皆さんは非常に残念ですが登校は控えるように」
 高校二年生だった瑞希の三学期はうやむやのまま長い春休みに入った。いずれ再開されるであろう学校に、もう彼女の姿はない。
 ちょうど瑞希の高校生活の一年目が終わろうとしていた頃、それは初春を告げる暖かい一日だった。内気な瑞希にとってクラスメイトと打ち解けるのは難しく昼はいつも独りだった。その日の陽気な気候にふと誘われた瑞希は昼休みに教室の外へ出てみることにした。
 弁当を広げる場所を探して歩いていた瑞希は、校舎の側の人気のないところにベンチがあるのを知った。これまでに幾度かここを通ったが、立派な楡の木に眼が行くことはあっても、その傍らにある木製のベンチの存在には気付きもしなかった。座ってみた瑞希は、制服のスカート越しに伝えわる陽に暖められた木の温もりにホッとして、小さな弁当箱の蓋を開けた。
 食べ終わった瑞希は、いつものように文庫本を取り出すと、昨夜、栞を挟んでおいたページを開く。すると横の空いたスペースに突然誰かが腰を下ろした。驚いた瑞希は恐る恐る伺うように少し顔を上げると、静かに文庫本を広げる見知らぬ女生徒がそこにいた。次の日も、また次の日も瑞希はベンチに座り、また女生徒も瑞希の横へ座った。始業のチャイムが鳴る五分前まで黙って二人は文庫本を見つめた。
 春休みが明けるのを瑞希はどれほど待ち侘びただろうか。新学年の始業式で三年生の顔の中にあの人の姿を見つけたとき、顔が真赤になるほど瑞希は恥ずかしくなった。昼休みになるとあの人は変わらずベンチへやって来る、横に座る瑞希の心はどれだけ弾んだことだろう。
 いつしか雨の日を瑞希は嫌うようになった。湿気交じりの陰気な教室、あの人に会えない物悲しさ、喉の奥が押し潰されそうで、そんな日は箸も進まなかった。
 全校集会や行事のあるたびに、瑞希はあの人を探した。彼女もまたいつも独りで誰かと話している様子はなかった。そんな彼女の未だ聞くことのない声が、いつか自分の名を呼んだりするのを瑞希は密かに想像したりしてみた。
「瑞希さん、ほら見上げてみて。新緑が綺麗だわ……」
 突然吹き付けた薫風が文庫本のページをパラパラと捲った。隣にはもう誰もいない。ベンチの片側は空いたままだった。
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