第92話 空蟬の

文字数 1,066文字

 息を切らし辿り着いた人気のない庭の木陰に倒れ込むように座り込んだ石倉勝の口元には乾いた赤い血が付いている。身体中の痛みを今になって感じたように、走っている時には気付かなかった辺りに響き渡る蝉の鳴き声を勝は聴いた。乱れた髪の隙間から汗がとめどなく流れ落ちてくる。
「ちくしょう、うっとうしい」
 犯罪にまみれ暮らしていた勝にとって逃げることは日常だったが、今回ばかりは相手が悪く下手を打ってしまった。しかも、まだ逃げ通せておらず、塀に囲まれたここは安心ではあったが、いつまでもここにいるわけにもいかなかった。
 夏の午後は、木漏れ日の下の勝の頭上へ僅かながら鮮明な光を注いでいた。窮地に陥っている勝も、これには不思議な安らぎを覚えた。濃い植物や土の匂い、腕を這い上がる大きな蟻を払いのける動作に、勝の消え掛けていた幼き夏のことが浮かび上がる。
 かくれんぼや探検と称した子供の遊びには、いつも視線の低い世界があった。大きくなることで遠くを見渡せるような気がしていても足下は常に変わらず、勝は偶然にもそこへと入り込んだ。
「イヤなこと考えちまった、くそっ」
 ここからどうするかを考えていても、勝の思考へ横から割り込むように土臭い光景が次々と浮かんできた。焦れば強くなる古いイメージは、いくら振り払おうとも頭を離れることはなかった。やがて勝の心は遠くの風景の中にあった。
 連鎖する古い印象を旅する勝の眼には何もかもが雄大に感じた。未知を怖がることもなく、むしろ探求心が後押しする勢いと、勝の周りには気が置けない友人達がいた。脱力しきった身体で帰るプールの後の心地よい疲労感、そして、黄昏を告げるひぐらしの鳴き声…… あとは、眠るだけだった。
 夜遅くに帰宅した家主もさすがに暗い庭に人が隠れているとは思わなかっただろう。唯一、蚊だけは抜け目なく勝を嗅ぎ付けた。
 早朝から鳴く蝉の声に勝は眠りから覚めた。それは、今日もまた訪れる厄介な暑さを告げているようだった。顔や腕は蚊にやられ、触れると腫れ上がっていた。家主が目覚めぬ前に動き出さねばと上体を起こそうとしたが、当然、身体の痛みはまだ癒えてはいなかった。ぼんやりとする頭と、纏わりつくような肌着を無理やりはたくと勝は誰にも見つからないよう慎重に塀を乗り越えた。
 夏の朝の解放感は、勝のような境遇にも平等に訪れた。道行く人々の妙な視線を感じた勝は蚊に刺された顔を掻き毟ったが、マスクをしていないことに気付いた。ズボンのポケットにあった皺くちゃのマスクを付けると、夏を振り払うかのように勝は走り出した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み