第68話 わたつ海や

文字数 1,007文字

 目覚めの勢いで行くには海はあまりにも遠い距離だった。秋の砂浜には拍子抜けするほどの家族連れやカップルが思い思いの時を過ごしている。ここだけ見ていれば、以前の生活のままのようにも思える光景。自転車のヘルメットを脱いだ須藤秀和は、浜風を浴びながら汗が引いていくのを待っていた。
 このまま帰るには味気ない。どこかへ寄り道する前に太陽にキラキラと白波が輝く写真をSNSにアップすると、近場の名所を秀和は検索してみた。それほど腹は減っていなかったので飲食は除外し、ランドマーク的なものを調べているとSNSに通知が一件飛び込んだ。
 久しく会っていなかった友人からの連絡は、懐かしさと同時に浮世離れしかかっていた秀和の現実へと滑り込むようだった。
「久しぶり。引越して、まさにその海岸のすぐ側に住んでます」
 折よく休みだという友人から送られた地図を頼りに、秀和は自転車ですぐ着きそうな距離の彼の家へと向かった。
 自宅への最後の角を曲がると友人の姿が見え、近づくと彼の手に抱かれた小さな子供の姿があった。
「久しぶり。で、子供、生まれちゃいました」
 挨拶もそこそこに友人に招かれ家の裏手へ回ると小さな庭があり、プラスチックの白い椅子とテーブルが陽の光を受けた芝生の上で幸せそうにしていた。家の中から現れた妻に子供を預けた友人は、お茶を淹れに台所へと入っていった。
 カラフルなおもちゃや人形、言葉を知らない子供の声と、あやす母親の優しさ、何もかもが秀和の生活にはないものばかりがここには溢れている。自転車を漕ぎ続け辿り着いた先に垣間見た光景、ここはウイルスの脅威も不自然な生活からも遠い所のように思えた。
 陽が暮れかける時間に合わせ浜を散歩する友人の日課に秀和も付いて行くことにした。母親と子供は風が強いので家に残して。
 夕暮れの砂浜はサーファーや釣り人、犬の散歩をする人達の時間で、特別なのは遠くからやって来た秀和だけであった。都会の見知らぬ人と人とが発するプレッシャーすら浜風は蹴散らすのだろうか。秋の砂浜に吹く風は、ただの心地よさだけではない、気持ちの曇りすら晴らす風だった。
 友人と海を眺めながら語らう時間が過ぎてゆくのを秀和は惜しく感じた。夕焼けは景色と共に擦れ、花のように咲いては散る白波はやがて闇にまぎれ、ただその打ち付ける波の音だけが辺りに轟く。秀和は自宅へ帰るのが億劫になった。それは、物理的な距離だけではなかった。
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