第75話 やどり來し

文字数 909文字

 月夜を歩く青木一樹が夜空を見上げてみても月は離れてゆくばかりか、月光は決して自分を照らしてはいないと思った。
「いくら手を伸ばしてみても、届かないものばかりだ」
 天にかざした掌の指の隙間にこぼれる月の光は、くっきりと一樹の手の周囲に輪郭を浮かび上げた。手は確かにそこにあり、握り締め開いてみても何もない。
「馬鹿げているとは知りながら、やらずにはいられない」
 マスクをずらし掌に鼻を近づけて嗅いでみても、薫風すら掴めない手で遠い月の香が香るはずもなかった。
 一樹が月の香りに魅了されるにはわけがあった。
「月香る夜とは、今宵のようなことでしょうか」
 突然、その人から問われた言葉を一樹は理解ができなかった。言い終えてもこちらへ顔を向けず、月を眺め続けるその人の横顔を、ただ美しいと思った。一樹も空を見上げてみたが、朧げな月があるだけである。
「燻され漂う煙を見ているみたい」
 その人は、ゆっくりと掲げた左手で月を掴むような仕草をすると、一樹の方へ握り締めた拳をそのまま差し出した。
「掴めたと思いますか」
 呆気に取られたままの一樹は、何も言えず細い指がたたまれた拳を見つめた。親指の爪に塗られた淡いくすんだ水色のマニュキアは、その人の薄い眼の色によく似合っていた。
 そっと掌を舞い上がらせるように指を開いたその人の袂は、爽やかな芳香を放った。水気を含んだような清々しい香はマニュキアの色そのものであり、その人も、空の月も、全ては同じ香だと思った。一樹は完璧に計算されたような一連の流れに見惚れた。
 今宵の月は、あの日とは似ても似つかない。ましてや眺める掌からは一樹の太い五本の指が伸びている。
「指か」
 消沈したように一樹は何もない自分の指を眺めた。
 あの日、その人が開いた薬指には銀色の細く控えめな指輪があった。しなやかな手には、その指輪がとてもよく似合っていた。
 もう一度、月に目掛けて腕を伸ばした一樹は何度も手で月を掴もうとしたが、もちろん叶わず、また嗅いでみても掌は何も匂わない。
「ああ、何も掴めない…… 認めたくないけど、それが俺の人生ってやつか」
 上空を流れる雲は月を瞬く間に覆い隠したが、一樹は未だ掌を眺めていた。
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