第54話 思ふこと

文字数 989文字

 あれから一年が経とうとしている。世間が騒がしくなり始めた一月と今の一月で足立恵介の人生に変化はあったのだろうか。
 高級マンションの一室で人知れず暮らす恵介は、今日もたくさんのモニターを前に数字を追う。株の動向、恵介の世界は数字によって形作られていた。
 生活の全てをそこへ集中させる徹底的な無駄の排除、部屋は音も無く静かに、安物のモノトーンの服しか買わず、交友関係を全て断ち、信じられるものは数字しか恵介になかった。損をすることは数字の裏切りではなく、数字を信用できなかった自分の愚かさだと信じた。
 目まぐるしく展開する世界の経済、それはただ今そうであるだけであり、そのことは恵介の問題ではなかった。どんなに酷い世の中になろうが、どんなに経済が荒れようが、そんなことに悲観せず、ただ数字を追い続け、己の信じた数字の先だけに注視した。
 恵介は酒も煙草もやらなかった。唯一の娯楽、もしくは息抜きとして、高層階から見渡す夜景をお供に安いインスタントコーヒーを飲むのが夜の日課だった。
「たくさんの人々が背負う小さな数字の集大成…… 夜景か……」
 この生活をいつ止めてもよいぐらいの貯蓄も、恵介にとってはただの数字であり、人の一生もそれぞれの数字であり、国も政治も数字だった。
「では、数字とはなんでしょうか…… 神でしょうか…… それであれば神も数字なのでしょうか……」
 大学生の頃、数学を教えていた教授は、この恵介の質問に答えられなかった。哲学を教えていた教授に聞いてみても、納得のゆく回答を恵介は得られなかった。誰も分からないからこそ恵介は数字へのめり込み、人間関係の割り切れなさに愛想を尽かし、はじめは数字を友とし、やがて数字に身を任せるようになり、今は数字を信じていた。
「最後は…… 巨大な数字の中へと俺のちっぽけな数字が取り込まれるだけ……」
 便座の上や、浴槽に浸かっているときなど、恵介は数字を数えた。それは幼い子供のするようなことにも思えたが、恵介の場合は何も理由はなく、いつしか、そう決まっていたのだった。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九…… 零……」
「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、キュウ…… ゼロ……」
 恵介はときどき、いつかそこに自分がいることを考えてみたり、計算してみたりした。
「どうせ最後に零を掛けたら全ては同じ…… はじめから決まっている……」
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