第81話 玉ゆらの

文字数 974文字

 木造アパートのドアを開けると、こもっていた部屋の匂いが漂い出した。煙草と生活臭が混じった匂いの中の微かな侘しさと懐かしさ。狭い玄関に靴は一足もなく、入口から全てが簡単に見渡せる小さな畳敷きの世界が谷本伸哉の父の終の棲家だった。
「お邪魔します」
 主のいない部屋へ上がると伸哉は、南向きに設えられた擦りガラスの木枠窓を少し手こずりながら開けた。秋の陽の光は十分に射し込み、気候に温められたそよ風が伸哉の顔の横を吹き抜ける。都会の真ん中に建っているアパートにしては、ここからの見晴らしはよかった。
「さて、何から始めればよいものか……」
 疎遠になっていた父の訃報を警察からの連絡で知らされた伸哉は、まず最近まで生きていたことに驚いた。数年前に母が亡くなり、妹も結婚し、独り身で気楽に暮らしていたのでなおさらだった。小学校に上がった頃に突然いなくなった父が、仕事の都合で引越した伸哉と同じ沿線に暮らしていたことは不思議にさえ思えた。
「もう、先に着てるなら連絡ぐらいしてよ。表で待ってたんだから」
 部屋の入り口に立つ妹の姿口調が年を追うごとに母へ似てきたと伸哉は思った。そして、この部屋に住んだ、記憶の中で止まったままの父に自分は似ているのだろうかとも。
 築数十年の部屋は至る所が痛んで綺麗ではなかったが、物はほとんどなかった。一日で終わらせると意気込む妹のおかげで片付けはすぐに終わりそうだった。大事にならなくて助かる反面、一人の人間の最後を考えると寂しいものだと伸哉は思った。
 万年床、色褪せたカラーボックス、天板の剥げ掛かった足の短い折りたたみのテーブル、粗大ゴミは大家の好意で処分してくれる手筈だったので一階の邪魔にならない所へ下ろすと、益々部屋は殺風景になった。残った数少ない持ち物も大きなゴミ袋に一つと半分しかなかった。
 ゴミ袋を見下ろすように挟んで立った兄妹は、父の形見に微かな面影も感じなかった。幼く記憶も曖昧だった妹は、なおさらそうだろうと伸哉は思った。
「じゃあ、あとはお願いね」
 妹が帰ってからも伸哉はまだ部屋に残っていた。窓から入り込む風は少し冷たくなっていた。ふと思い立ちゴミ袋を漁った伸哉は、服の合間から片方だけの手袋を見つけた。小さな手を導いた、父の大きく思えた手。
 伸哉は片方だけの手袋を鞄にしまうと、ゴミ袋の口を縛って閉じた。
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