第70話 いかにせむ

文字数 1,108文字

 もう来ないとばかり思い込んでいた秋に佇む。そればかりか、初霜の降りそうな冷え込みが裏切りを重ね、新たな季節を予感させた。
 早春に久野美咲は、このまま終わりゆく世界を見届けることなく自分は死んでしまうのだろうと考えていた。到底、納得のゆく人生だとは思えなかったが今回のことばかりは致し方ない。むしろ、これまでなぜ、まだ死なないと思えてこられたのだろうかと不思議にさえ思えた。
 一日の終わりが訪れるたびに死は色濃くなる。明日、確実に目覚める保証などなかった。今日、死なないのであれば、明日、死ぬだけなのかもしれない。その一日を大事に思い通り過ごせることもなく、朝、無事に目覚めれば会社へ行き、仕事をして、生きるための栄養を食事で摂取し、仕事が終われば来月の賃金を稼ぎ出し、歩いて生きるための部屋へと帰る。眠りは明日への気力を養う行為であったが、その明日が美咲には、よく分からなくなっていた。
 初期の不安を和らげる情報が伝えられ始めると、世間には少しばかりの楽観と夏の兆しが見え隠れしたが、美咲にとってはそれが死を覆す理由にならないばかりか、また以前のように死を埋め直すことにしかならないと思えた。長い年月と繁栄が必死に隠してきた死を。
 一日、一日と、日は美咲に重くのしかかる。抗うように美咲は、これまでに積み上げたものを解放することで、少しでも軽くなろうと試みた。部屋を見渡し、生活を振り返れば、全ては生きることを繋ぎ止めるための物や手段ばかりだった。趣味も娯楽も、生命保険すらも、美咲には馬鹿らしく思えた。一つ物を棄てれば気分は少し軽くなったが死から遠ざかるわけでもなく、保険を解約しても死が突然やって来るわけでもなかった。それでも美咲は生活を単調にすることで、少し考えや見え方が異なることを知った。世界は一つの大きな塊のように思えた日が今は懐かしく、都市に垣間見るあらゆる生命との距離は離れてゆく。季節は変わるが、美咲の一日は、ただ、死ななかった日として過ぎてゆく。
 会社の帰りに駅構内の花屋の前を通りかかった美咲は、一本の大輪の大菊が眼に付いた。黄色い菊が並ぶ中で、少し萎れかかったその菊が気に掛かった。
「すみません、その黄色い菊を一本いただけますか。あっ、そちらではなく、その右横のを、簡易包装で、栄養剤も必要ありませんので……」
 今さら花を買うなんて矛盾していると思いながら美咲は家に帰ると、活ける物がないことに気付いた。自分のためのコップに水を張ると、長すぎる茎はほとんど切り落とし菊を挿した。
 菊は残された日を美咲と共に生きることとなった。そう長くはない生命が保たれた間、美咲は茶碗で水を飲んで暮らした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み