第49話 夕暮は

文字数 1,016文字

 皐月の黄昏の空を眺めながら、矢田一美は祈った。一日が終わろうとする刹那、純白だった雲が薄暮色の上で橙色から黒へと変化してゆく姿を見送りながら。
 一美の祈りは何のための祈りか。
 高台にあった公園から見渡す西の空は開け、遮るものは何もなかった。この公園を偶然見つけた一美は、瞬時に祈りの光景が浮かんだ。特定の宗教に熱心だったというわけでもなく、それは今をどう生きればよいのか分からなかった一美の思い付きだったのかもしれない。とにかく一美の礼拝は、この日から始まった。
 日没の時刻を調べると、一美はその時間に間に合うように毎日家を出た。歩いて半時間ほどの道のりは、祈りのことばかりを考えた。
 終息、一美の念頭にあった言葉はそれだけだった。ただ、それがこの状況に対する想いであればよかったが、どことなく、そちら側ではないこちら側が絶える意味も少なからず孕んでいるのではと思っていた。自分にはどうしようもない潮流の中、悪い方へ転がらないように祈る、それだけが一美にできることだと信じた。
 西の方角に落ちゆく太陽を感じながら、一美の祈りは始まる。合掌をしたり、手を組んだりすることもなく、ただ立ちながら頭の中に抱く想いを強く念じた。
 曇ろうが、雨が降ろうが、かまうことなく一美は赴き祈る。いつしか公園の一角を一美は「礼拝の場」と呼び、その精神の結びつきを強固なものとした。
 礼拝の場の足下の雑草が勢いよく成長する姿に一美の心は打たれた。伸びた分の時間は一美の祈りの度合いと同等にように思われ、それだけ手ごたえを感じた。
 これまで誰とも出会いのなかった公園に、その日は先客がいた。髪を短く切ったマスク姿の女は礼拝の場に立ち遠くを眺めていた。一美は躊躇し公園のベンチへ腰を下ろしたが、女は一向に立ち退く気配を見せなかった。二人の見つめる先で陽は暮れようとしている。一美は立ち上がると、礼拝の場へと進み出た。
「夕陽が綺麗ですね」
 女がこちらへと顔を向けることなく言い放った言葉に、一美は思はず女の方を向いた。優しい風が運ぶ柑橘に似た女の香りは、マスク越しの一美の鼻にも伝わった。
「こうしてただ眺めている世界は何も変わっていないように見えるのにね…… あの雲なんか、どんどん形を変えていって…… 色んなこと、思い出しちゃって……」
「あの…… よければ一緒に…… あの雲へ、お祈りしませんか」
 この同じ空の下を去り行く人々への鎮魂の祈りを二人は捧げた。
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