第52話 大淀の

文字数 1,067文字

 大学生活も終わりに近づく中で、吉野朋子の許へ突然の電話が掛かってきた。
「誠に申し訳ないのですが、内定は取り消しとさせていただき……」
 それから数日のことを朋子は未だに思い出すことができなかった。
 朋子が発見されたとき、部屋の中は荒らされたように全ての物はひっくり返り、灯りも点けずに暗いワンルームの壁際で彼女はうずくまっていた。鍵を開けるのに立ち会った不動産屋と警察官も始めは事件性を疑ったが、友人が何とか放心する朋子自身から聞き出した事件の否定により警察官は去って行った。しかし、不動産屋だけはいつまでもその場に残り、怪訝な顔で部屋の中に異常はないかと見回していた。
 貧血と脱水症状で病院へと担ぎ込まれた朋子は、点滴を打たれながら久しぶりに熟睡した。眼が覚めても誰とも話をしたくなかったので、そのまま眼をつぶり続け寝たふりをした。翌日、発見した友人が見舞に再度訪れたことも、その友人が枕元で人知れず泣いていたことも知ってはいたが、朋子の感情は一切揺さぶられることもなく黙って眼をつぶり続けた。もう一生、このまま何も見たくない、朋子はそう思った。
 大学の職員から朋子の親へ連絡が入ったのは、入院の翌日のことだった。友人が不動産屋へ親の連絡先を聞こうにも不動産屋は個人情報だと答えなかった。友人は困り果てどうしてよいか分からずいたところ、夜になって自分達が通う大学のことをすっかり忘れていたと気付いた。翌朝一番で大学へ駆けつけた友人は、この問題が職員の手へ無事に引き継がれたことに安堵し、その場に座り込み泣き出してしまった。
 朋子の実家は遠く、両親は大学から連絡を受けたその日中に病院へ駆け付けることはできなかった。職員と友人は面会時間が終わるまで朋子に付き添ったが、朋子は眼をつぶり寝たふりを続けた。
 眠れぬ夜を過ごした両親は、最速の手段を講じて翌日の昼過ぎに病院へと到着した。朋子は側で泣く母親の泣き声を聞いても動じなかった。父は全く言葉を発さなかったが、朋子は父の加齢臭に少し懐かしさが込み上げそうになった。
 看護師に呼ばれ母は立って行ったが、父の気配はまだそこにあった。眼を閉じていても、じっとこちらを窺うような父を朋子は思い浮かべていた。
「春になったら…… 帰ってこいって言っただろうが……」
 呟くように吐き出された父の言葉に朋子は心の奥に固く押し留めていた感情が崩れてゆく様を瞼の裏に見た。
 ゆっくりと上半身を起こす朋子を父が受け止めると、朋子は強く抱き付き、
「ごめんなさい、本当にごめんない……」と、父の胸の中で泣いた。
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