第55話 大方の

文字数 980文字

 婚姻届けを出した大暑のあの一日を上村一男は、今、再び思い出していた。
 あの頃は暑さも気怠さも忘れ一心不乱に働き、薄給ながらも新しい暮らしには勢いと輝かしい将来しかなかった。あの日の紺碧の空に輝く常夏の華のようなあの太陽のように。
「俺の物は、こんなに少なかったのか……」
 誰もいない玄関にまとめられていた荷物は大きなダンボール一つに収まっていた。少し持ち上げてみても、拍子抜けするほどにそれは軽い。二年分の一男の思い出が詰まっているにしては……
 段ボールを抱えた一男は、廊下の先に見えるひっそりとしたリビングをしばらく眺めた。終わりの頃は罵声を浴びせられてばかりだった部屋。
「いつか懐かしくなる日が来るんかな……」
 鍵を掛けた一男はドアポストに鍵を落とし、二度と訪れることのないドアの前で佇んだ。合鍵を手放した瞬間に分断された関係、隔てるドアの一枚は過去との物凄く遠い距離を一男に感じさせた。
 マンションの外は照りつける太陽の陽射しが肌を刺すように痛く、一男は日陰を沿うように車を止めていた駐車場へと両手で大きな段ボールを抱えながら歩いた。
「あの日も、こうやって段ボールをいくつも運んだな……」
 顎の先から滴る汗は段ボールの上へと落ち、濃い色の染みをいくつも作った。重なり合ってゆく濃い点は広がり大きな染みとなってゆく。ゆさゆさと揺れる段ボール、のそのそと歩く一男、一生懸命生きていても、それだけではどうにもならないこの世の中は一男にとって難しく、こんな一つの段ボールを頑張って運ぶような一男の単純な喜びは理解され難かった。
「あと少し、あと少しで車だぞ、頑張れ」
 住宅街の一角にあった狭い駐車場の一番奥に止めていた一男の仕事用の白い軽バンは、夏の陽を受けて眩い光を反射していた。その眼を射貫くような光に眩んだ一男の額からは大量の汗が滴となって段ボールの上へと落ちた。上蓋はもう、一男の汗で一面変色していた。
 帰り道、一男はセルフのガソリンスタンドへ立ち寄った。日陰でも車の周囲は熱気で蒸せるように暑かった。千円だけ入金すると給油は一瞬で終わった。財布の中にはもう小銭しかなかった。エアコンを切って、窓を開けると、一男の車は流れの速い道へと進み出た。
 仕事もなくなり、家庭もなくなった。それでも容赦なく太陽は照りつける。今年の夏の中でも、一男は一途に生きている。
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