第28話 浪の音に

文字数 981文字

 検査の結果は陽性だった。どこで罹患したのかも分からぬほど原田賢治は仕事で出歩いていたので、ただただ面倒なこの事態をどう対処すればよいか考えた。幸い病状はたいしたこともなくホテル療養に決まったが、隔離期間の荷物の準備をした翌日の午後には自宅へ搬送車がやって来て、そのままホテルへと入った。
 とりあえず、仕事の引継ぎと関係各所への連絡とお詫びを済ませた賢治はすることがなくなった。誰もが世間の状況に配慮し尽力してくれたのは理解できるが、自分にしかできない仕事だとばかり思っていたことが、こうも簡単に代わりの利くことに賢治は侘しい気持ちになった。
 楽な部屋着へ着替えベッドに横になった賢治はテレビをつけると、いつの間にか寝ていた。
 賢治は夢を見た。さざなみが…… それ以上のことは覚えていなかった。仕事に追われ毎日が忙しなく過ぎてゆく日々の中で、まったく夢を見ることのなかった賢治は、その珍しい体験にしばらくベッドの上で放心した。狭い静かなホテルの一室に西日が射し、レースのカーテン越しの夕陽が白い壁を赤く染めていた。
 館内放送があり部屋のドアを開けると、すぐ側に備えられた椅子の上にビニール袋に入った弁当と飲み物が置いてあった。
「こんな時間に飯を食うなんて、いつ振りだろうな」
 いつもはまったく見ることのない平日のゴールデンタイムの番組は賢治にはつまらなかった。賢治は持参のノートPCでニュースを見ていたが、それにも飽きてしまった。気分転換に部屋のカーテンを開けると都会の夜景が広がっていた。そして、眼下を横切るように川が流れ、いくつかの橋が見えた。
「さざなみ……」
 賢治は、ふと夢占いのサイトを検索してみた。夢を見ることもなく、占いなんてまったく当てにしてこなかった賢治が気付けば夢中になっていた。
 水の状態は近未来の状況を示しています。あるサイトには、こう記されていた。
「さざなみであれば、まあ穏やか、ってことか……」
 夜、灯りを消し、ベッドに横になっても賢治は寝付けなかった。昼寝をしたからかもしれなかったが、それよりも夢のことを考えてしまい眼が覚めるばかりだった。起き上がった賢治は窓の外を覗いた。川面に街の灯を煌めかした川は、螺鈿装飾が施された黒い帯のようだった。
 からっぽの貝がさざなみに洗われ顔を出す。賢治は耳に当てた巻貝の音を聴いたのかもしれない。
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