第31話 久方の

文字数 1,014文字

 深夜の長い回廊は消毒液と人の生活臭が混じった匂いの中にあった。非常灯の緑色の灯りと、中庭から射す月光だけが静けさを助長している。夜勤担当として老人介護施設に勤める谷本剛は、溜まった書類整理の途中で見回りと眠気覚ましを兼ね施設内を巡回していた。
 一般の面会が制限されてからというもの、みるみるうちに疲弊してゆく入居者達も、今は深い眠りの中で日常から解放され孫と遊ぶ夢でも見ているのであろうか。そうであれば少しの救いもあったが、この限られた幸せも、いつ崩れさるか分からない緊張に職員達は別の疲弊に晒されていた。
「地方の施設で感染が蔓延してるって、夕方のニュースでやってましたね」
 職員同士の話題はもっぱらウイルスに関することばかりだった。独り暮らしの剛にとって、私生活で会う人もいない現状、職場での会話だけが人と話すことの全てだったので、ウイルス、ウイルスと繰り返されるたびに嫌気が差してた。もちろん、人一倍感染対策を怠らず、極力、家と仕事場の往復だけに努め、自身の自由や生活を抑制していた剛には、ウイルスしか話す話題のない世界なんてもはや別のウイルスに感染してしまっているのと同等とさえ思えた。言葉がウイルスに感染し伝播してゆく、この世界中に。
 廊下の窓を開けると冷たい風が吹き込み、剛の眠気もさらっていった。見上げた闇夜には月がこれまでと変わらぬ光を放っていたが、見上げている自分達の生活は変わり果ててしまった。
「やあ、谷本さん、こんばんは」
 剛が振り返ると真後ろの部屋の戸の隙間から懇意にしていた老人が現れた。普段から寝つきの悪い彼とは、夜中たびたび二人で話をする仲だった。
「今夜は月が明るいね」
 窓際に並んで立つ彼の顔を月の光が照らした。今年に入り日増しに痩せこけていった彼の顔はマスク越しでも明らかだった。
「谷本さん、私はね、若い頃に鵜飼の見習いみたいなものをしたことがあってね。今夜みたいな月を見ると、思い出すんですよ。真っ赤に燃えたかがり火、暴れ狂う鮎の群れ、深い闇のような川に突き刺さる鵜のくちばし…… 何かね、地獄があるとしたら、あんな光景じゃないかね。私はね、おっかなくなって逃げちゃった小心者だ」
 初めての話を聴くように、剛はこの何度も聴かされた話が終わるまで黙って頷いた。
 一通り話し終え自室へと戻る彼を見送り、剛は事務室へと戻りながら呟いた。
「何も間違っちゃいない…… 今の俺達はまるで鮎みたいなもんだ」
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