第37話 匂ふより

文字数 1,074文字

 広大な工場の敷地の端、屋根もない一角に錆びた灰皿だけが一つ置かれている。この遠い唯一の喫煙所を目指し、休憩時間になると集まる群れの中に片山真一郎もいた。初春のまだ肌寒い野外で寒さに震えながら揃いの会社支給の制服に身を包む人々の中にあっても、仲のよい同僚もいない真一郎だけは誰とも話さず、いつも一人で煙をくゆらせ考えごとをしたりしていた。
 変則的な週五日の労働、真一郎は機械部品の仕訳を担当していたが、実際のところ、それが何に使われている物なのか知らなかった。ただ流れてくる部品を選り分け一日が終わり、一週間が過ぎ、気付けば一ヶ月が経っている。そんな生活を繰り返し送る中、真一郎は自分が何の為に生まれ、生きているのか、そんなことを考えるようになっていた。
 薄給の手取りでは贅沢もできず、三十路を過ぎた辺りから古い友人との交遊も減り、休日も金の掛からない動画を家で観ているだけで、自ら新しいことを始める気力もすっかり削がれていた。もちろん、そんな真一郎を癒してくれる恋人もいなかった。
 緊急事態宣言と景気の動向から会社は、工場の時短稼働へと切り替えた。時給で働く真一郎のただでさえ少ない給料は、さらに目減りした。喫煙所での話題ももっぱらそのことばかりで、転職か残るべきかを熱く語っていたかと思えば、休憩終了を告げるチャイムが鳴る前には、結局、明確な案も出ないまま、それぞれの持ち場へと散って行くのであった。仕事と一緒で、いつも同じことの繰り返し、むしろ酷くなるばかり、真一郎はそんなことを思った。
 陽は暖かくなり、工場の入口にあった老木の桜が花開くと、喫煙所の連中の悲愴な話題も影を潜め、またいつものギャンブルや金儲け、異性や娯楽の話に戻っていた。一人静かに考えごとに浸りたかった真一郎は、いつもより離れて立っていると、外れの方に低木があることに気付いた。建物の陰に隠れ喫煙所から見えなかった木は黄色の花をつけていた。
 真一郎が近づいてよく見ると、昔懐かしい白いペンキで塗られた小さな看板が木の側にあり、そこには黒いペンキで「ヤマブキ」と記されていた。植物に関心のなかった真一郎も、晩春の陽射しの下に咲く一重の可憐な花の姿を素直に愛おしく思った。単調な生活に添えられた山吹の彩りに。
 翌朝の朝礼で、中期的なコスト削減の一環として、清掃費用の縮小による喫煙所の廃止、また老桜倒木の恐れに端を発する敷地内管理費抑制のための樹木の伐採が発表された。
 真一郎の頭にヤマブキの花が浮かんだ。喫煙所もなくなり、花もなくなり、最後は自分だな、と真一郎は考えていた。
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