第76話 かはる色を

文字数 961文字

 シャワーを浴び、バスタオルを手に取った高原香織は、端のほつれが眼に付いた。随分長く使い込まれたタオルの生地は痩せて硬くなり、当初の鮮やかなオレンジ色も今は色褪せ乾いたような色合いになっている。水滴を拭き取る肌触りも粗さばかりが気になった。
 バスタオルを身体に巻き付け脱衣場を出た香織はベッドの周りに点在する下着や服を拾い集めると部屋を見渡した。初めて来た時から何も変わらないように見える部屋も、所々に溜まった埃が過ぎ去った時間の長さを感じさせる。南向きの窓の陽に焼けた元はモスグリーンだった薄っぺらいカーテンが年老いてゆく自分のようで、香織はこのカーテンが嫌いだった。
「そうだ、今から出るし、車で送っていこうか」
 キッチンの方から聞こえる大きな声に答えず、香織は服を着ながら考えごとをしていた。
「ねえ、どうする」
 男は聞こえてなかったのかと部屋までやって来て香織に尋ねた。香織は少し焦らしながら男の申し出を断った。
 午後のまだ陽も高い電車の車窓から街を眺める香織の髪は開け放たれた暖かい風に揺れた。男の家への往復にだけ乗る電車は、毎回、自分の知らない世界へ行くような気がした。見知らぬマスク姿の人々、一度も降りたことのない駅がいくつも過ぎてゆく。この時間や距離は、見知らぬ自分と香織が入れ替わるようにいつも感じた。そして、ターミナル駅でいつもの電車に乗り換えると、香織は家へと帰った。
 自宅は何もかもが色褪せて見えた。築数年経った中古住宅の壁紙やワックスの薄くなったフローリング、食器を始めとする生活臭のするもの全てが古ぼけ、それらに囲まれた暮らしを香織は受け入れることで、もう一人の自分を正当化できると考えていた。
「ただいま」
 夜遅くになって夫が帰宅すると、香織は夕飯を温め直した。この作業も香織は嫌いだった。冷めたものは二度と戻らないと思っていたからだった。結婚し夫婦となり、傍から見れば一見不自由もない生活の中で香織は、色褪せてゆくような夫が不憫でならなかった。
「何も知らず、年老いてゆくだけ、この人は……」
 食事を終えた夫は食器を片付けようとする香織を引き止めると話を始めた。
「離婚したいんだ。もう、何もかもが色褪せてしまった。君への思いも」
 香織は呆然としながら、色褪せたバスタオルやカーテンを思い出していた。
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