第32話 ひとりぬる

文字数 1,130文字

 人里離れた登山客が見向きもしない山の中を一人の中年男が大汗を掻きながら歩いている。実年齢よりも老いて見える老け顔、山深く分け入る格好ではあるが上から下まで黒や茶色の地味な色合いで、黒い一眼レフカメラと黒い双眼鏡を首から重たそうにぶら下げ、鈴もラジオも鳴らさず、単独で徘徊している。山の熟練者でもなく、ましてや地味な色の服は他から認識され難く、無理をした重い荷物に、熊避けもせず、誰の所有する土地かも分からないところへ勝手に入り込み、山のモラルをいくつも侵しながら辺りを見回す西條学。自称愛鳥家。
 学が趣味で始めた顔出し無しの匿名ブログには、珍しい鳥や躍動感の溢れる鳥の写真がたくさん掲載され、センスの良さと管理人の明るい人柄で人気を博していた。しかし、本当の彼を知る古い野鳥仲間達は、不愛想で人付き合いも性格も悪い身勝手な学と、今は決して関わろうとはしなかった。学も昔は純粋な鳥好きの青年だったが年を重ねるにつれ、愛は歪み他人への嫉妬へと変貌し、誰よりも一番良い写真を撮りたいと無茶をする彼の周りからはいつしか人が去って行ったのである。
 学はヤマドリを探していた。彼の膨大な鳥の写真の中にヤマドリは一枚もなかった。若い頃に野鳥仲間に見せつけられた長い尾を持つヤマドリの可憐な写真に魅了され、それ以来、学はそれを追い求めた。しかし、惹きつけられるほど、ヤマドリの姿は遠くに逃げてゆくように、学の下へは現れることはなかった。
 学のブログの常連だったある見知らぬ愛鳥家から持ち込まれるヤマドリの目撃情報があるたびに、学は現地へ赴き探索したが決して見つからなかった。そしていつも落胆した学は、疲れ切った身体で都会へと戻る電車に乗るである。
 いよいよ世間では各自治体を跨ぐ移動の自粛、不要不急の外出が叫ばれ、学もおいそれと出歩くことが難しくなった。都会には学を喜ばしてくれるような野鳥を見掛けることはない。そんな不満が募る生活を学が送る中、また、あの愛鳥家からヤマドリの情報が上がった。翌日の県境を跨ぐ始発には興奮した顔の学の姿があった。
 その日の夜、学のブログのヤマドリ情報の続きに、こんな書き込みがあった。
「ヤマドリ情報提供の方へ。当方、地元の古い愛鳥家ですが、でまかせは止めてください。この辺りでヤマドリを見掛けたことなどありませんし、今日も始発に乗って県を跨いで来るような不埒で気持ちの悪い不届き者に遭遇し、はっきり言って迷惑です。管理人様へ。いつも楽しく拝見しております」
 ヤマドリの情報提供は、いたずらを疑われて以来はたと止んだ。学はこれまで何も知らずに幻影の鳥を追い求めていたのである。
 そしてまた、この日を境に二度とブログの更新がされることはなかった。
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