第10話 わすれじよ

文字数 1,029文字

 今朝とは異なって見える街。通い慣れた駅へ向かう途中で三原慎太郎は眩暈がしてビルの壁にもたれかかった。身を粉にして二十数年、尽くした会社の自主廃業、それに伴う失業が突然慎太郎の眼前に突き付けられた。今もそれを思い出し気分が悪く、こめかみが締め付けられるように痛い。寒さが日に日に増してゆく秋の夜、自分と似たサラリーマン達の群の中をこれまで同じように歩いてきたのに、慎太郎はその中から突然はじき出されたように感じていた。駅へと向かう人々の整然とした足取りが、慎太郎の気分をさらに重くした。
 地下鉄の駅まで歩いて十分のところを何とか一時間掛けて辿り着くと、ちょうどホーム上では、たくさんの人を乗せた列車の扉が閉まった。ここでもまた慎太郎は社会からつまはじきにされ、無言の人々の眼が自分のこの姿を憐れむように見ていると思った。すると、立ち止まる慎太郎の脇からのっそりと現れた人影が、ゆっくりと動き出した列車の前へと引き寄せられるように近づいた。無意識の内に咄嗟に出た慎太郎の手が、その人を掴むのは速かった。
「おい!」
 急に腕を掴まれ慌てて振り向いた青年の眼に慎太郎は暗い影を見た。若者特有の澄んだ輝きはなく、どこまでも深く萎んだような老人のような眼をしていた。
「おい君! しっかりしろ、大丈夫か?」
 先程までの自分が掛けられてもおかしくないような言葉を発していることにも、今日一日の出来事やあれほど悩まされた頭痛、自分の将来さえも慎太郎の頭からはすっかりと消え失せ、無心で青年の両肩を揺すった。虚ろな青年の眼がはっきりと慎太郎を捉えると、青年は子供が親にしがみつくように慎太郎の胸の中で脇目も振らずむせび泣いた。次の列車を待つ人々の群れが二人を避けるように通り過ぎる。慎太郎はしっかりと青年を抱きながら、気が済むまでそのまま泣かせ続けた。
 少し落ち着いた青年をベンチに座らせた慎太郎は、自動販売機で温かいココアを買って手渡した。
「毎日終電まで残業続きで…… 今日は早く上がれたんですが、会社を出てから何も覚えてなくて……」
 慎太郎は時折相づちを打ちながら青年の話を聞いていたが、いつしか、これまでの自分がそうだったと青年と自分を重ね合わせていた。この先の青年の人生に掛ける言葉を今の慎太郎は持ち合わせているのだろうか、と。
 青年と別れ一人電車に乗り込んだ慎太郎は、これまでの自分をここへ残し、この街を去ることにした。そして、今日のことを忘れてはならない、と誓った。
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