第88話 あくがれぬ

文字数 1,018文字

 腕時計を手に取った塩澤裕樹は、文字盤に薄く積もった埃を指で拭った。埃は窓から射す陽の光の中に舞い散る。塵積もるのに掛かった正確な時間がどれほどかは分からなかったが、時間を必要としなかった期間の長さを計るには十分に腕時計は機能していた。
 裕樹は求職中だったが、急に情勢が変わってしまった現状をじっくり見届けようと、今は探すことを放棄し家に引きこもっている。無駄遣いさえしなければ、数年は働かなくとも暮らしていける蓄えはあった。
 家で独り生活をしていた宏樹は、すぐに時間を気にしなくなった。眠りたいように眠り、起きたいように起き、空腹になれば食べ、人との接触もない生活に時間は必要なく、これまでと変わらず刻まれているであろう時の外で宏樹は時間に背いていた。
 昼の暖かさにまどろむ裕樹は、ソファに横になると眠りに落ちた。社会人として長年暮らしていた裕樹にとって午睡は、学生以来のことだった。
 月の夢を見た。昼月と夕月が重なり静止したまま、裕樹は眠りから覚めた。夢の中の時の軌道は止まったまま、それがどれほどの長さだったのかも裕樹は知ろうともしなかった。むしろ時間を知らなかった時代のことを裕樹は考え始めた。
 時間から離れるほどに、時間が過ぎ去った後に残るものは、はっきりと見えるのだと裕樹は気付いた。おおよそ同じ速さで動く世界中にいくつあるかも分からない量の時計が、大きな力で時を推し進めている。巨大な時の流れに疑問が生じた裕樹は時間について調べてみたが、閏年や年々変化している自転の帳尻合わせが行われていることに違和感を覚えた。
「消された時間はどこへ行って、足された時間はどこから来るんだ……」
 都合の良いように装い、何食わぬ顔で時を刻み続ける時間に裕樹は嫌気が差し、それ以上、時について調べることは止めてしまった。
 時計の電池は外され、テレビやPC、携帯電話でさえも電源は落とされた。唯一、自力で動いていた自動巻きの腕時計は伏せられたまま、いつしか静かにその動きを止めていた。
 裕樹を除いたところでは、以前と同じように時間は流れていた。いつまでもこの生活が続けられないと裕樹は知りながら、せめて今ぐらいは時の外側から、この社会を眺めていたかった。自然崇拝に傾倒することもなく、確かな刻一刻を自らの身体に刻み付けようとした。
 これは時間を越えようとする無謀な行いだろうか。それとも、時間という陰をやり過ごし、その後ろ姿を暴く行いだろうか。
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