第35話 あはれをも

文字数 912文字

 週末、どこにも行けない須田宏樹は同棲する彼女とアパートの一室で暇を持て余していた。鼻歌交じりで昼食を作る彼女の後姿、付き合いも長くなった年月の中で、それは当たり前となった生活の光景。一人分の食事を運んできた彼女は、トーストと目玉焼きとトマトが乗った皿をテーブルに置いた。遅い朝食を食べた宏樹は、飲み残しの冷たくなった珈琲を飲みながらスマートフォンを眺める。
「携帯ばっか見てないで、今日何するか決めようよ」
 宏樹が適当な返事を返すのもいつものことだったが、週末の予定が決まらないのも最近ではいつのもことだった。出歩ければいくらでも選択肢もあるが、今はそうもいかない。部屋でできそうなことをやりつくした二人は、毎週この会話をしているのであった。
「じゃあさ、面白いこと思い付いたから、今日はそれでいいでしょ」
 生返事の宏樹をよそに、食事の手を止めた彼女は文房具の入った引き出しを漁り十二色入りの鮮やかなペンの箱を取り出した。
「何でもいいから宏樹の好きなもの一つ挙げてみて」
 天体に関するニュースを何気なしに見ていた宏樹は「月」と、だけ彼女の方も向かずに答えた。
「あのさ、そこは私の名前を言うところでしょうよ、最低」
 相変わらず、こちらへ関心を示さない宏樹にはおかまいなしに、彼女は黒いペンを取り出すと宏樹の腕に絵を描き始めた。
「ちょっ、お前何してんの」
「何って、タトゥーごっこ」
 きょとんとした真顔でこちらを見つめる彼女に宏樹はおかしさが込み上げてきた。
「ほんと、いつも突拍子もないこと思い付くな」
 水性だから大丈夫という、ちぐはぐな受け答えをしながら彼女は続きを描こうとした。
「ほら、あっち向いてて、完成するまで見ちゃダメだからね」
 肌の上を硬いペン先がチロチロと這うくすぐったさに耐えながら、宏樹は出来上がったという絵を見た。
「えっ、何これ、花王のマークじゃん。ていうか、下手くそすぎるだろ」
 宏樹の腕には不細工な三日月が怪しげな笑みを浮かべていた。
「どうせ家から出ないんだし、気にしないの。ていうか、洗剤メーカーの申し子の宏樹は今週の洗濯当番だったわね」
 皿の上に残った三日月のような黄身にフォークを突き刺し彼女は笑った。
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